日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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カテゴリ:牧師からのメッセ-ジ( 501 )

「まっすぐ」

〈イエスは、「わたしについて来なさい。人間の漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った〉(マルコによる福音書1章17~18節)

★イエス様から呼びかけられ、「すぐに」全てを捨てて従うなんてことは、誰にとっても難しいことです。実はこの「すぐに」という言葉は、この福音書を書いたマルコの口癖のようなもので、福音書のいたるところに出てくる言葉です。マルコによる福音書ではしばしば、何か新しいことが起こる時に「すぐに」という言葉が出てくるのです。
★この「すぐに」という言葉、もとは「まっすぐ」という意味の言葉です。わたしたちは日々クヨクヨしたりオロオロしたりしながら、毎日現れてくる新しいことにビクビクと恐れながら、向かっていかざるをえません。聖書が語る「すぐに」というのは、もしかしたら、わたしたち人間の振るまいであるよりも、「わたしについて来なさい」と言うイエス様の向こうから注がれる神様のまなざしを表しているのかもしれないと思うのです。進んでいくわたしたちの生身の姿に「まっすぐに」注がれる神様のまなざしです。
★谷川俊太郎さんの詩に「まっすぐ」という題の詩があります。「キューピッドの矢のように まっすぐ/レーザーの光のように まっすぐ//まっすぐはとどく/まっすぐは貫く/まっすぐは跳ね返る/まっすぐは終わらない//赤んぼの鳴き声のように まっすぐ/玉突きの玉のように まっすぐ//まっすぐを生み出す力は/まっすぐではない/まがりくねり/せめぎあってる」。神様のまなざしは、オロオロし、クヨクヨし、ビクビクしながら曲がりくねった道を歩いているわたしたちに向かって、わたしたちに寄り添って、まがりくねり、せめぎあいながら、それでもいつもまっすぐに注がれているのではないか。そのまなざしを心に刻みながら、クヨクヨ、オロオロ、ビクビクしながらでも、イエス様にしたがって生きる道を、生きてゆきたいと願うのです。
by oji-church | 2017-07-25 13:25 | 牧師からのメッセ-ジ
「不思議な時」

〈時は満ち、神の国は近づいた〉(マルコによる福音書1章12~13節)

★聖書には時を表す言葉が二つあります。一つは数字で表すことのできる「時間」(クロノス)、もう一つは数字では表せない「時」(カイロス)。ここでは「カイロス」が遣われています。
★わたしたちは生きている中で、不思議な「時」を経験することがあります。普段は数字で測られる時の中で、いついつまでにあれをしなくちゃ、これをしなくちゃと慌ただしく生活しています。しかし例えば、親しくしていた人が亡くなった時。その時、わたしたちはその人がもうこの世にいない現実をまざまざと突きつけられて、悲しみに暮れます。だけれどもそれと同時に、その人が生きていた時、あんなことがあった、こんなことを言っていた。そういうことが生きていたその時よりも一層しみじみと、ありありと、掛け替えのない、愛おしいものとして甦ってくることはないだろうか。そういう経験は、わたしたち人間が本当に人間として人間らしく生きて成長していく上で大切な、そして欠かすことのできない経験でありましょう。普段は時計を見い見い、せわしなく生きている。でもそんな数字で測られる時間を生きる中で、あるときふと、過去のなにげない経験が、自分にとって掛け替えなく愛おしい、尊いものとして甦ってくる。そんな不思議な「時」をわたしたちは経験します。聖書の時代の人は時計なんて持っていませんでした。その分、その時代の人たちはそういう不思議な「時」の経験を、わたしたちよりもより敏感に感じ取り、深く胸に刻みながら生きていたでしょう。
★そんな「時」を感じ受けることが、「神の国は近づいた(近くにある)」というこことなのかもしれません。
by oji-church | 2017-07-19 09:20 | 牧師からのメッセ-ジ
「野獣と一緒にいたが」

〈霊はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒にいたが、天使たちが仕えていた〉(マルコによる福音書1章12~13節)

★野獣は自分のために、人に襲いかかり、爪を立て、食い破って省みないもの。でも実は、人は誰しもが、自分の内に、そんな野獣のような思いを秘めているものではないか。自分のために人を犠牲にして省みない残酷な思い、です。教会では「隣人を愛しなさい」「すべての人の僕になりなさい」と教えられます。野獣などもってのほか。だから表面上は、お上品に、麗しく振る舞うことを身につける。だけれども、この腹の底の野獣は死に絶えたり、どこかへ行ってしまいなんかはせずに、やっぱりそこに居続けるのです。だから、表面上は麗しく振る舞っていたとしても、人に意地悪したり、陰口を叩いたりして、野獣を時々宥め返し、自分を騙して生きている。そんなわたしたちじゃないでしょうか。
★聖書がわたしたちに語るのは、この野獣と闘って打ち勝ち、根絶やしにしてしまえ、ということではありません。聖書が語るのは「野獣が一緒にいたが、天使たちが仕えていた」ということ。自分をだまし、人をだまして、おもてづらだけお上品に、麗しく振る舞うのではなくて、わたしと同じように腹の底に野獣を抱えた人々と出会い、触れあって、時には、少しでも、その人を思って生きること。野獣を抱えていたとしても、掛け替えのない大切な存在なのだと、そう、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と神様から呼びかけられた存在なのだと思い返しながら。霊は、この神様の呼びかけをいっそう深くイエス様のいのちに、働きに刻み込むために、イエス様を荒れ野へと放り出したのではないだろうか。
by oji-church | 2017-07-13 11:00 | 牧師からのメッセ-ジ
「やさしいつながり」

〈「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者。」〉(マルコによる福音書1章11節)

★教会で子ども食堂を始めて八ヶ月になりました。最初はただ子どもを集めて、食事を提供すればそれで済むことと考えていました。けれども、一人また一人と、家庭にも学校にも居場所を持てない子どもたちが集まって来ました。送り迎えをする中で、その子どもたちが、この食堂の場を、自分たちの居場所としてどれだけ心待ちに、楽しみにしてくれているかが、ひしひし伝わってきます。居場所を持たない子どもたち、と言って、じゃあ「居場所」って何なのだろうかと考えます。
★子どもたちは、確かにご飯を食べにやって来るのだけれども、でも求めているのは実はご飯じゃない。子どもたちの様子を見ていると、飢えているのは、何よりも人との「つながり」です。それも「やさしい」つながり。じゃあ、やさしいつながりって、いったいどんなつながりか? それはもしかして、「あなたは大事な存在だよ」という声を、呼びかけを、語りかけを、受け取るつながりじゃないかと思い至ります。子どもたちは、家庭でも、親が病気だったり、忙しかったり、問題を抱えていたりして、その声を受け取ることができずに、やさしいつながりに、ひときわ飢えている。でも子どもだから、それが何なのか、よく分からないし、うまく言えないでいる。そんなふうに感じられます。
★わたしたち人間は、道具として生まれてくるのではないから、何かを求めて生きる。裸で生まれた赤ちゃんの時からずっと、何かを求めて生きている。その裸の存在に向かって、何の条件もなく、無条件に「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、「あなたは大切な存在です」と語りかけられる時、はじめてわたしたちは、誰かのために生きることができるようになる、のではないでしょうか。

by oji-church | 2017-07-05 11:29 | 牧師からのメッセ-ジ
「宣教に境界線はありません」

★今年度の王子教会の主題に「神を愛し、人を愛する教会」という言葉を挙げました。その根っこにあるのは、教会の宣教ということを、皆でもう一度考えてみようということです。「皆で」というところが大切な点です。
★教会の宣教を考えるという時には、どこかに境界線を引っ張ってはいけないのだと思います。この人だけが考える。このことだけを考えるというのではいけない。なぜなら教会というのは、神様と出会って神様に繋がっていく場所だから。その神様は、この世界のすべてを造られた神様なのだから。わたしたち一人ひとり、すべての人間を創られている神様なのだから。
★福音書には、様々な人々の生きる姿が描かれています。この世の生活の中で、様々な苦労を負う人、挫折を経験している人、悲しみや痛みを背負う人、高慢な人、イエス様に「わたしについてきなさい」と言われながら、ついていくことができない人。いずれも教会の外で生きている人々の姿です。でも福音書には、その教会の外で、イエス様と出会うことによって、新しい生き方に気付かされていく人たちの姿が描かれています。
★日曜日は教会に行って礼拝に出席する。でも他の日は神様のことも、イエス様のことも忘れて、この世のものの見方、考え方にすっかり浸って生活している。それではキリスト者である意味も、甲斐も無くなってしまいます。教会で神様と、イエス様と出会い、その神様・イエス様との出会いを携えてこの世に出て行き、そこでの様々な人との出会い・触れあいの中にまた、神様・イエス様との出会いを見出して、また教会に戻ってきて、神様に、イエス様に感謝を献げる。それがキリスト者としてのわたしたちの生き方ではないかと思います。
by oji-church | 2017-06-28 13:14 | 牧師からのメッセ-ジ
「いのちをわけあえば」

〈自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな〉(マルコによる福音書2章5から6節)。

★『世界がもし100人の村だったら』という本には、こう書かれています。「村に住む人びとの100人のうち、20人は栄養がじゅうぶんではなく、一人は死にそうなほどです。でも15人は太り過ぎです」。いま世界の人口はだいたい70億人です。計算すると14億人は栄養が十分じゃない。7千万人は食べるものが無くて死にそうです。でも10億人くらいの人たちは食べ物が有り余っています。
★わたしたちは結構、食べ物を食べないで捨ててしまったり、残してしまったりしていますよね。食べ物が余っている人がいるいっぽうで、食べるものが無くて、死にそうになっている人がいるのが、いまわたしたちの生きているこの世界です。
★日本でも、6人に1人の子どもが「貧困家庭」といわれます。日本の場合は、「今日食べるものがない」わけではないかもしれません。けれども、他の友だちと同じように、学用品を揃えたり、習い事をしたり、上の学校に進学したり、着るものや食べるものを選んだりすることができません。それでいじめられたり、ひとりぼっちにさせられたりしてしまう子がいます。そんな国の中にわたしたちはいま、生きています。
★そんな世界に生きているわたしたちに向かってイエス様は「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むのをやめなさない」と言われるのです。食べ物や着るものを選べない人がいる時、持っている人が、持っていない人と分け合ったとしたら、もしかして、みんなが生き生きと生きることができるようになるんじゃないか。「自分の命」「自分の体」「自分の食べ物」「自分の飲み物」「自分の服」、自分自分自分。わたしたちは結構いつも、自分のことばかり考えて生きています。だけれども、自分のことばっかり考えるのはやめないかい? そうイエス様は言っているのじゃないかと思うのです。(6月11日「花の日」こどもとおとなの合同礼拝説教より)
by oji-church | 2017-06-20 16:14 | 牧師からのメッセ-ジ
「聖霊が語らせる言葉」

〈エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まってきた。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった〉(使徒言行録2章5から6節)。

★「信心深い」という言葉は、もともと「よく受けとめる」という意味。相手に対して「しっかり丁寧に心遣いをする」というような意味です。そういう人たちが集まって来て、「自分の言葉」(「自分の故郷の言葉」とありますが、もとのギリシア語の原文には「故郷」という言葉はありません)が話されているのを聞いたということです。
★「相手に対してしっかり丁寧に心遣いをする人たち」が、「自分の言葉」が話されているのを聞いたということ。いま、戦争が平和と言い換えられ、支配と監視が安全と言い換えられ、搾取が自由と言い換えられ、いろいろな言葉が正反対の意味に使われて、嘘がまん延して、現実が歪められている世の中にあってそれは、問いかけ、答えて、理解し合う。語りかけ、聞き受けて、共感する。そのようにして、現実の、いま目の前に現に生きている人と出会って共に生きる、そういう言葉本来の役目をきちんと果たす、丁寧な言葉が交わされた、ということではないかと思うのです。
★目の前に現に生きている人と出会うことが、とても難しい時代にわたしたちは生きています。だれもが人と出会うことよりも小さなスマホの画面に夢中になっています。自分だけの世界に浸ることが多くなれば、その分、現実のほうはどうでもよくなっていきます。実際の現実の方はいま、国々の指導者の得手勝手が大手を振って闊歩するようになっていて、世界は戦争へとまっしぐらに突き進んでいるように思えてなりません。そういう時代の中で、相手に丁寧に心遣いをし、互いに問いかけ答えて理解し合う。語りかけ聞き受けて共感する。そうして現にいま目の前にいる人と出会って共に生きる道筋を形作っていく。それが、聖霊、神様の霊がわたしたちに語らせる言葉なのでしょう。

by oji-church | 2017-06-14 13:48 | 牧師からのメッセ-ジ
「ミンナオンナジ?」

★「それは当たらない」。テレビを見ていると、官房長官が、何か問題点や疑問点を指摘されるとそうと言って、それ以上の説明や釈明をまったくせずに、記者からの問いかけや批判を一切受け付けません。「当たらない」と言うのですから、「お前がはずれてる」「お前が間違っている」ということ、「悪いのはお前だ」と質問した側の記者をなじる言葉でもあります。問いかける言葉と答える言葉とがまったく出会うことも触れ合うこともないまま、空中分解して泡のように消えてしまうのです。問いかけ答えて理解しあう。語りかけ聞き受けて共感する。そういう言葉本来の働きは、どこかへ消え去ってしまったかのようです。その代わりでしょうか。ネット上には、立場や意見の異なる人に対する苛立ちや憎しみをぶちまけ、煽り立てる言葉が溢れています。
★「ミンナオンナジ」と思える人間同士の間では麗しい言葉が交わされますが、自分と立場や意見が異なる人には、言葉は、理解し合い、共感し合うという言葉本来の役目に用いられなくなってしまっているようです。「ミンナオンナジ」と思えるのは心地いいことですが、立場も境遇も意見もやることも、すべて同じ人間というのはどこにもいません。「ミンナオンナジ」は幻想に過ぎません。この幻想にしがみつこうとするとき人は、自分とは違う立場や意見の人に対して、居心地の良さを壊す者として、苛立ちや憎しみを持つようになり、やがてそれをぶちまけ、煽り立てる事になってしまうのでしょう。人間というのは元々バラバラの違う存在。でも、同時に人間というのは一人では生きられない存在でもあります。だから、お互いに違いを乗り越えて、理解し合い、共感し合って共に生きる社会を形作るために、言葉というものを編み出してきました。それはなかなか簡単ではない、忍耐も必要なことでしょう。しかし、言葉があるからこそわたしたち人間はその、簡単ではない、忍耐力の要ることも、成し遂げてくることができたのです。そういう言葉というものが持っている本来の意味・役割に、わたしたちはいまもう一度心を向けていく必要があるのではないでしょうか。
by oji-church | 2017-06-07 09:26 | 牧師からのメッセ-ジ
「すでに手遅れだった」

★先週、衆議院で「共謀罪」法案が可決されました。実際に犯罪が行われるよりも前に、その「準備」をなしたと見なされる者を逮捕・起訴できる法律です。どのような振る舞いが犯罪の「準備」と見なされるかについて、国会では曖昧かつ「いい加減!」な答弁しかなされないまま法案は可決されました。この法律が成立すれば、官憲から目をつけられた人は、恣意的に「犯罪の準備をした」と見なされ、逮捕・起訴され、犯罪者とされる可能性が生じます。これは、戦前に「希代の悪法」と呼ばれた「治安維持法」と同じ働きです。戦前・戦時下、治安維持法によって、官憲から目を付けられた無実の人が多く逮捕・投獄されました。戦時下ホーリネス系教会が弾圧され、牧師が逮捕・投獄され、教会が解散を余儀なくさせられたのも、治安維持法によるものでした。それは人々の間に国には逆らわないほうがいいという萎縮を生み出します。
★「特定秘密保護法」「安保法制」「共謀罪」。いずれも国の力を強め、国を国民・市民から遠ざける法律です。この状況は「戦前に近づいている」というよりも、もはや「戦前である」と言った方が近いでしょう。首相は憲法9条の改憲を呼びかけていますが、そうなれば確実にそれは、「戦時下」になることでしょう。
★ナチス・ドイツと闘ったドイツの牧師マルティン・ニーメラーの言葉が、いまわたしたちに大事なことを呼びかけているように思います。「ナチが共産主義者を襲ったとき、自分はやや不安になった。けれども結局自分は共産主義者でなかったので何もしなかった。それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども自分は依然として社会主義者ではなかったので、やはり何もしなかった。それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかった。さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であった。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであった」。
by oji-church | 2017-05-31 17:28 | 牧師からのメッセ-ジ
「見よ、それは極めて良かった」

★創世記2章で、神様は最初に大地を造ります。その大地から最初の人を造り、人が大地を耕し守るようにされます。更にその最初の人からもう一人の人を造ります。大地と最初の人ともう一人の人。この三者の中で、一つのものが別のものの「道具」のようにみなされているものは一つもありません。人は大地を「道具」のように、好き勝手に使うのではなく、耕し守り、世話する役割を与えられています。二人目の人は「彼に合う助ける者」と言われていますが、決して一人目の人を「助ける」ためだけに造られた「道具」ではありません。「わたしの骨の骨。わたしの肉の肉」と言われているように、「同じ」立場の存在として「助け合う」ことが目指されいます。創造物語の中では、誰も誰かの「道具」とされてはならないということが語られているのだと思えます。人は命は、「道具」ではなく「目的」として、その人・命が、守られ大切にされ、喜んでいきいきと生きることができることを目指して、お互いに出会い、結ばれていくものなのだということ。
★そもそも、神様はこの世界・命を・人間をどのように造られただろうか。神様は、この世界・命・人間を創られご覧になって「見よ、それは極めて良かった」という最上の喜びの声を挙げられました。自分の都合に合わせた「道具」としてではなく、ただこの世界があること、命が生きていること、人間が生まれ、生きていることそのことを「喜ぶ」ために、神様はこの世界を、命を、人間を造られたということです。「道具」としてではなく「目的」として出会い、結び合うということを、一言で言い表す言葉があります。「愛する」ということです。
★いま、わたしたちの暮らす社会の中で、どんどんと人と命の「道具化」が進められているように思えてなりません。聖書の創造物語はわたしたちを命の原点に立ち帰らせてくれます。
by oji-church | 2017-05-24 11:41 | 牧師からのメッセ-ジ