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カテゴリ:牧師からのメッセ-ジ( 513 )

「ゆるしとしての生き方」

〈安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか〉(マルコによる福音書3章4節)

★以前、ある牧師さんがこんな言葉を語っていたことを伝え聞きました。「神様が許しておられるのは、共に生きることだけ」。ひっくり返せば、神様は「共に生きること」以外は全部禁じておられるという意味にもなるでしょう。わたしたちの生き方を律する神様の厳しさが伝わってきます。だけれども、それはまた、もう一度ひっくり返せば、「共に生きる」ためならば、どんなことでも神様はわたしたちに許して下さっておられるということです。
★いかに自分が「正しく」生きるか、あるいはいかに自分が「救われる」か、ということが人生の目的なのではなくて、いかにして「共にいきる」か、ということこそが、わたしたちの生き方の一番大切な目的なのだということです。
★いかにして「共に生きるか」。それをわたしたちの人生の一番の目的として生きようとするとき、その一番の土台となるのは、何よりもまず、このわたし自身が、どうあれ「生きること」を「ゆるされている」ということなのではないでしょうか。神様はわたしたち一人ひとりに、わたしたちの姿がどうあれ、何よりも先ず「生きていていいんだ」とゆるしの声を呼びかけておられる。このことをわたしたちが本当に心の奥底に刻むとき、わたしたちの生き方は、「共に生きなければならない」という義務としての生き方から、「ともに生きていい」という喜びに溢れた「ゆるしとしての生き方」に変えられていくのではないかと思うのです。
★いま、将来への不安から、いたるところで自分中心と、他者への不寛容が、黒雲のように世界を覆っていくような時代の中、「~してはならない」生き方、「~しなければならない」生き方から、「~してもよい」生き方、「生きていていい」と呼び交わす生き方、「共に生きていい」というゆるしの声を喜んで受けとめる生き方、「ゆるしとしての生き方」を、見つけ出してゆきたいと願うのです。
by oji-church | 2017-10-31 13:44 | 牧師からのメッセ-ジ
「弱い声と言葉のために」

〈安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある〉(マルコによる福音書2章27~28節)

★今選挙の真最中で街には、「強く、勇ましく、人を圧倒する」言葉が各所に響いています。わたしたちは「強く、勇ましく、人を圧倒する」ことが「いいこと」だと思っています。でも自分自身を振り返ると、弱く、臆病で、人を圧倒しもしない自分に不甲斐なさを感じるものです。でも人間のほんとうの姿って、「強く、勇ましく、人を圧倒する」ものなのでしょうか。
★イエス様の弟子たちが安息日に、麦の穂を摘んで食べたことを見とがめて「安息日にしてはならないことをした」とクレームを付けてきたファリサイ派の人々たちにイエス様が応えた言葉が、上の言葉です。「安息日は人のために定められた」。ここで語られる「人」というのは、道端の麦の穂をちょっと摘んで口に放り込んでみるような、「弱く、臆病で、人を圧倒しもしない人」のことでしょう。安息日は、神様がこの世界を創られて、休まれたことを覚える日です。安息日が「弱く、臆病で、人を圧倒しもしない人」のためにあるということは、この世界それ自体がそのような人のために創られたということでしょう。
★「ああ、思った通り、やさしそうな人でよかった」。「今日帰ったら、お母さん、起きてるといいな」。「ええ? 今日ママ、家にいるの?」。どれも、子ども食堂に来ている子どもたちの口から出た、小さな小さな言葉です。人を圧倒することもなく、臆病で、弱い言葉です。そんな小さな声と言葉が、実はわたしたちの日常・普段の生活の傍らには幾つも響いています。神様は、そんな人間のために、そんな人間に向かって、そんな人間を大事にするために、そんな人間に焦点を合わせ、そんな人間を目指して、安息日を与えられたのだ。この世界を造られたのだ。そして今日も今も働いておられるのだ、そう思ってこの世界をもう一度、見渡してみるのです。
by oji-church | 2017-10-25 16:24 | 牧師からのメッセ-ジ
「新しいわたしたち」

〈だれも、織りたての布から布切れをっとって、古い服に継ぎを当てたりはしない。…また、だれも新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない〉(マルコによる福音書2章21~22節)

★実はわたしたち人間というのは、目に見えるものだけを見ているだけでは、「希望」なんて、どこにも見出すことができないのです。なぜって人間には未来を見通すことができないのだから。目に見える隣国のミサイルとか、テロとか、独裁者だとか、そういうものに突き動かされているのではどこからも本当の「希望」なんて生まれてきはしないのです。「希望」というのは敢えて持つもの、嬉しいことや楽しいことが何処にも見当たらなくても、目に見えるものはミサイルやテロや独裁者であったとしても、それでも「希望」を持とうとわたしたちが心に決める時、その時初めて「希望」というのはわたしたちの胸の内に、小さな新しい芽を芽生えさせるのでしょう。
★以前信徒の方が礼拝で語ってくださった言葉が今も心に響いています。「どんな人でも、今が一番若いのですから」。自分の内に「新しいもの」「喜ばしいもの」を見つけ出すことが難しくなってくると、わたしたちは、自分の過去に依り頼もうとします。自分はこれだけのことをやってきた。こんな経験をしてきた。これだけのことを知っている。分かっている。そうやって自分を人よりも「上」の立てて、自分を守ろうとしてしまうのです。「どんな人でも、今が一番若いのだから」。そこには「自分の」業績や経験ではなくて、「神様が」造り出す、まだ見えない未来に、喜びを見出そうとする「希望」が感じられます。生きている限り、今日という、神様が作られる「一番新しいもの」を与えられている点では、生まれたばかりの赤ちゃんも、お年寄りも、まったく変わりはないのです。
★ここでイエス様が言われている「織りたての新しい布」「新しいぶどう酒」「新しい革袋」というのは、新しい今日という日を与えられているわたしたち自身のことなのです。一方「古い服」「古い革袋」というのは、わたしたちが自分自身の過去の業績や経験に依り頼んで、「上から目線」で世の中を見ようと苦労しているわたしたちの心持ち、有様のことなのでしょう。
by oji-church | 2017-10-18 10:21 | 牧師からのメッセ-ジ
「病むことを当たり前として」

〈医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである〉(マルコによる福音書2章17節)

★8月に腰を痛めて4日間入院。歩行不能のわたしは看護師さんにストレッチャー、ベッド、車椅子で運ばれる日を送りました。普段お見舞いで伺いスタスタ歩く事になれた病院の廊下を「運ばれる」時、何とも言えない気持ちを味わいました。「情けない」「格好悪い」「申し訳ない」……。でもそれはもしかしたら、介護や介助を受ける側に身を置いておられる多くの人たちが、内心で感じていることかもしれないなあと思ってみるのです。そんな介護や介助を受ける側に身を置く人の胸の内に秘められたかすかな声は、なかなか世の中の表舞台には上がってきません。世の中の表舞台は、健康で丈夫な、介護・介助される必要のない人間というものを「当たり前」として成り立っていて、そういう小さな声に焦点が当てられることはほとんどありません。
★「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」。ここでイエス様は、丈夫な人ではなく、病気の人に焦点を当てて、世の中の表舞台の真ん中に置くのです。確かに病気の人がお医者の手当てを、介助を、介護を必要とするのは「当たり前」のことです。イエス様は、丈夫で、自分の足で立ってスタスタあるいて「人を助ける側」にいるのが「当たり前」という世の表舞台のありようをひっくりかえして、むしろ病気の人をその真ん中に置いて、病気の人が手当てや介護や介護を必要とすることこそが「当たり前」であって、それは「情けない」ことでも「格好悪い」ことでも「申し訳ない」ことでもないと言われているのです。いわば、立ってスタスタ歩く目線を「当たり前」にするのではなく、車椅子に座り、ベッドに横たわり、ストレッチャーに寝かされて運ばれる時の目線をこそ、「当たり前」として、この世の中を見直してみること(=悔い改め)をわたしたちに呼びかけているということでしょうか。
by oji-church | 2017-10-11 15:27 | 牧師からのメッセ-ジ
「愚直の信」

〈四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがし穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に「あなたの罪は赦される」と言われた〉(マルコによる福音書2章3~5節)

★当時、「治らない病気」は「呪い」によると考えられました。治癒が困難であればあるほど、それはより強い「呪い」、すなわち、「神様の呪い」と考えざるをえなかったのです。それでもなお、この四人の人たちが中風の人をここに運んできたのは、彼らの思いの内に、「いや、神様は、人を永遠に罰するような、そんな呪いを人間に下す神様ではなく、人を祝福する神様であるはずだ」と、そんな強い希望があったからではないでしょうか。イエス様だったらそんな本当の神様の姿をよく知っているはずだ、と連れてきたのです。
★イエス様に引き合わせるために、人の家の屋根をひっぺがえすなど、アホのやることです。わたしたちはしばしば、クリスチャンになると途端に「訳知り顔のクリスチャン」になってしまいます。でも、信仰とは「愚直」であること、「愚かになる」ことでもあるのではないか。何に対して? それは、「神様は、人を祝福する神様であって、人を呪う神様であるはずがない」という希望に対して。病いを得ているどの人も、生きることに困難や厳しさを負っているどの人も、神様の祝福から外れているはずがないと。その困難や厳しさを乗り越えて、一緒に、与えられた命を喜んで生き生きと生きることのできる道が必ず備えられているはずだと。神様に対して「愚直」であることは、必ず、自分一人のわたくし的な「心の中の信仰」に留まらず、自分以外の人と手を取り合って共に生きることへと繋がっていきます。
★彼らの「愚直」な信仰を「見て」、そこに心を重ねて、イエス様は言われます。「あなたの罪は赦される」。「見てご覧。あなたはこんなにも愚直に、人を祝福する神様への希望を携えた人たちに囲まれているじゃないか。そうならば、あなたは神様に呪われてなんかいるものか。こんな人たちに囲まれて、あなたは確かにもうすでに、目一杯神様に祝福されているぞ」。そんなふうにイエス様は言われたのじゃないかと思うのです。
by oji-church | 2017-10-04 12:21 | 牧師からのメッセ-ジ
「煽られた危機感の先には」

★先週、朝鮮がミサイルを発射しました。これに際して日本政府は「Jアラート」なる警戒警報を、北海道から東北、北関東3県、他に新潟、長野の計12県に発したということです。わたし自身、先月29日、秋田県にいた時にこの「Jアラート」を受けました。朝6時頃、突然枕元のスマホがすさまじい音量でビービー鳴り出しました。「こんな音で目覚まし、掛けたっけか?」と思いながらスマホを取り上げると、なにやら「国民保護情報」云々と書かれていましたが、寝ぼけて何かボタンを押したらすぐに消えてしまい、何のことやら分からぬまま、また寝てしまいました。
★朝鮮がいきなり日本にミサイルを撃ち込むことがないことは、現在までの情況を考えれば明らかです。また、実際に核弾頭を搭載したミサイルが日本に向かって発射されたなら、こんな警報が間に合わないことも明らかです。こうした警報を発することで、人の危機感や恐怖感を煽って、戦争をする態勢へと人心を束ねていこうとする意図があるのではないかと勘ぐってしまいます。
★84年前、桐生悠々という信濃毎日新聞の記者が「関東防空大演習を嗤う」という記事を書きました。昭和8年東京市を中心とした関東一帯で行われた防空演習を批判して「如何にそれが大規模のものであり、また如何にしばしばそれが行われても、実戦には、何等の役にも立たないだろう。帝都の上空に於て、敵機を迎え撃つが如き、作戦計画は、最初からこれを予定するならば滑稽であり、やむを得ずして、これを行うならば、勝敗の運命を決すべき最終の戦争を想定するものであらねばならない。壮観は壮観なりと雖も、要するにそれは一のパッペット・ショーに過ぎない」と語りました。この記事を読んだ信州在郷軍人会が信濃毎日新聞の不買運動を展開し、桐生は信濃毎日新聞を退社することを余儀なくされました。
★煽られた危機感によって自由な発言や批判が封じられた先には、有無を言わせぬ戦争が待っています。その時犠牲にされるのは一般庶民に他なりません。「Jアラート」は決して「国民を保護する」ものではありません。そんなことよりも、国際間に対話の気運を開くように努めることのほうが、余程意味あることではないかと思います。
by oji-church | 2017-09-20 11:13 | 牧師からのメッセ-ジ
「いやし―人をひととして向き合うこと」

〈イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人をいやし…〉(マルコ1:34)。

★聖書で使われる「いやす」という言葉は「テラペウオー」というギリシア語です。辞書で調べてみると、最初に出てくる意味は「いやす」ではないのです。「奉仕する、仕える、侍する、(神を)祀る、尊崇する」とあって、「世話をする、面倒をみる、意を用いる、心がける、配慮する」、次は「ご機嫌をとる、歓心を買う、へつらう、おもねる」、次に「育む、養う、大切にする、重んずる」とあって、その次「看護する」とあって、ほとんど最後に「治療する」とあります。聖書はイエス様のいやしの業をサラッと書いていますが、パパッと癒して「はい、次」というような「お手軽」なものではなかったのじゃないかと思えてきました。
★先月、腰を悪くして4日間入院しました。看護師さんたちには本当に頭が下がりました。担架で、ベッドで、車いすで運ばれ、歩行器で歩くのに付き添われしました。普段自分の足でスタスタ歩いている自分がどれだけ、高い目線でしか物を見ていないかを知らされました。そんなわたしを看護師さんたちは、丁寧に丁寧に、チョットした段差にも声を掛けて配慮して運んでくださいました。夜中中叫んで居られるお年寄りもいました。それでも嫌な顔一つせずに、呼ばれればそばに行き、説教めいたことは一言も言わず、言われたことに応える働きをなさっておられた。そういう看護師さんたちがおられることに心打たれました。
★「藪医者は人で持つ」という言葉があります。病気が治るかどうか以前に、病いや怪我を負った人を、尊い一人の人間として大切に、丁寧に扱ってもらえるかどうか、それがもうほとんど全部じゃないか、という思いを一層強くしました。イエス様がなした「いやし」「テラペウオー」というのも、そういうものだったのじゃないか。人を人として大事にする、心を通わせることのできる相手として向き合う。専門家にしかできないことではありません。だけれども、簡単にできることだとも思いません。問われているのは、わたしたちがどれだけ、人を人として、大切な存在として見つめ、向き合うことができるかということでしょう。

by oji-church | 2017-09-14 13:07 | 牧師からのメッセ-ジ
「記念―想い起こすこと」

★世の中では、学校で会社でも、しばしば創立何周年記念というお祝いをします。教会もしばしば同じように、創立記念の日にお祝い事をするのですが、聖書では「記念」という言葉は「想い起こす」という特別な意味を持っていることを知らされます。
★想い起こすという人間の営みには、さまざまな感情が伴わざるを得ません。時には胸の痛みや恥ずかしさ、悲しみと共に想い起こされる思い出もあります。しかし同時に、わたしたちが痛みや恥ずかしさや悲しみを越えて、前に進んでいくための力や励ましを与えられるのも、やはり「想い起こす」ことを通じてではないかと思います。わたしたちには未来を見晴るかすことはできません。わたしたちの胸の内に残されているのはすべて過去の出来事です。しかしまたわたしたちは、前に向かって、未来に向かって進んで行かなければなりません。その時に、前に向かって歩みを進めるわたしたちを支える杖となるのも、やはり過去の経験なのです。
★聖書を開けば、そこに語られているのは、ほとんど最初から最後まで、過去を想い起こす人間の営みです。聖書の中で神様は繰り返し「想い起こして見なさい」と人々に呼びかけています。聖書の中でイスラエルの人々は、神様によって繰り返し繰り返し、過去を想い起こすことを促され、そこに示されていたはずの神様の指し示しに、自分たちが、また自分たちの先祖が従い得なかった「罪」を直視させられるのです。しかしそれと同時に、その「罪」にもかかわらず、繰り返し神様がイスラエルの人々に呼びかけ続けてこられた、そしていまも呼びかけ続けておられる、そういう神様の姿をも想い起こさせられるのです。そうした改めて、神様から、今、そしてこれから未来に向かってわたしたちが進んで行く道筋を示される。それが、聖書の最初から最後までほとんど全部の頁に語られていることであり、この「想い起こす」という営みそのものが、聖書の信仰と言ってもよいでしょう。ですから、わたしたちもまた、教会の歴史を記念する時、単にそれを祝うのではなく、「想い起こす」ことが求められているのです。
by oji-church | 2017-09-07 10:54 | 牧師からのメッセ-ジ
「なすべきこと―石の叫びに耳を寄せて」

★戦争から72年目の8月を迎えています。先月誕生日を迎えて48歳になりました。戦争後の72年とわたしの生きてきた48年とを引き比べると、丁度この敗戦後72年の3分の2の時間を生きてきたことになります。8月を迎える度に、わたしたちは戦争によるあまりにも多くの犠牲に思いを致し、平和を求めて礼拝を行っていますが、70年以上にわたってそれを積み重ねてきながら、いまのわたしたちを取り巻く状況を見ると、70年経ってまた、戦争の前に舞い戻っているかのようです。「特定秘密保護法」「安保法制」「共謀罪」と、いずれも戦前、民主主義の存在しなかった日本で、人々を国の都合で操り、戦争へと駆り立てる諸々の法律が定められていきましたが、それと同じものがいま、出揃っている有様です。この72年間、わたしたちは何をやってきたのか。少なくともその3分の2、半分以上の責任を、わたし自身も負っているのです。今からでも遅くない。そう信じて、なすべきことをなしてゆきたいと願うものです。
★わたしたちが平和を形作ってゆくために、まずなすべきことは何だろうか。イエス様は「もっとも小さい者にしたことが、わたしにしたことなのだ」と言われます。わたしたちは、この世界で「もっとも小さい者」を見つけることはできません。「もっとも小さい者」とは「わたしよりも小さくされた者」のことなのでしょう。平和を求めて進む時、それは、あの戦争によって無念の死を遂げた人々のことではないでしょうか。すくなくともいまここにいるわたしたちは、戦争によって命を奪われてはいないのですから。戦争によって無念にも命を奪われた人たちの、その声に耳を傾けること。それが平和を求めて進む時、わたしたちがまずなすべきことではないでしょうか。亡くなった人は声を挙げることはできません。それでもなお、その声なき声に耳をそばだてようとするとき、きっと聞こえてくる声があるはず。イエス様もそう言われています。「この人たちが黙れば、石が叫びだす」(ルカ19:40)と。平和を求める石の叫びに耳を寄せ、それをわたしたち自身の声として、平和を求め、形作ってゆきたいと願います。
by oji-church | 2017-08-24 12:34 | 牧師からのメッセ-ジ
「余計なこと」(3)

★「お前は俺たちの何だ?」。この叫びに対してイエス様は「自分は関係無い」と引き下がるのではないです。「黙れ、この人から出て行け」とお叱りになった。このイエス様の台詞は一見すると、この「悪霊に取りつかれた人」に向かって叱りつけているように聞こえますが、ちがうんじゃないか。むしろこの人をよってたかって虐めて、排除するあのいじめっ子たちに向かってこそイエス様は言っているんじゃないか。そんな気がしてきました。
★灰谷健次郎さんという児童文学者の『太陽の子』という作品の中には、こんな言葉が出て来ます。「いい人ほど勝手な人間になれないから、つらくて苦しいのや、人間が動物とちがうところは、他人の痛みを、自分の痛みのように感じてしまうところなんや。ひょっとすれば、いい人というのは、自分のほかに、どれだけ、自分以外の人間が住んでいるかということで決まるのではないやろうか」。主人公のふうちゃんという小学六年生の女の子の思いです。「感じて『しまう』」というのは、そうしようと思わなくても、それを「感じてしまう」ということです。そのようにわたしたちのいのちというのは、実は目に見えるわたしたちのこの身体の外にもはみ出して、広がって、人と出会い触れあい、やがて自分のほかの、自分以外の人の「痛み」や「悲しみ」が住むようになる、ということではないだろうか。
★人の「痛み」や「悲しみ」なんて、自分が幸せに暮らすためにはまさに「余計なもの」に思え、そんなものに「手を出すな」「考えるな」と思われるかもしれません。だけれども、わたしたち人間は、自分をはみ出して自分以外の人と出会い触れ合って、お互いにその「悲しみ」や「痛み」を自分の中に住まわせることを通じて、初めて、お互いを理解し合い、お互いを大切な存在、かけがえなく、愛おしいものとして見つけ出すことができるのではないでしょうか。それは決して「余計なもの」などではないでしょう。
by oji-church | 2017-08-18 13:31 | 牧師からのメッセ-ジ