2月1日の週報コラム「ひだり手」
《従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。》(ローマの信徒への手紙6章12~14節)
★最後のところで「神に献げなさい」と訳されているのは、その前のところにで「罪に任せてはなりません」と訳されている「任せる」というのと同じ言葉です。ですから「神に任せなさい」と訳した方がいいと思います。「義」とは「真っ正面から向き合うこと」。
★真っ正面から人と向き合うための道具、とは不思議な言い方です。真っ正面から人と向き合うとは、つまり決して人を何かのための道具としては見ない。その人そのものが何よりもかけがえない存在なのだと思う、という意味でしょう。
★1月23日の朝日新聞の天声人語に、昭和の初めに活躍した渡辺白泉という人のこんな俳句が載っていました。「夏の海水兵ひとり紛失す」。「船から落ちるかして、水兵が行方不明になったのだろう。それを『紛失』と言い表した」。つまり戦争が始まって「人が部品か工具のように扱われる様」を歌ったとのことです。
★現在もまさに、景気の動向の如何によって、人が使い捨てにされる時代を迎えています。そんな中で、自分自身の体を、真っ正面から人と向き合うための道具として神様に任せてゆくことを、聖書は求めているのです。