10月12日の週報コラム「ひだり手」
★『聖餐の豊かさを求めて』という本の出版記念シンポジウムが10月7日にありました。その中で一人の牧師さんのお話が、現代の教会への深い問いかけとして深く印象に残りました。
★その牧師さんの教会は1980年代より「開かれた教会」を目指して歩んできました。何に対して開かれるのか。牧師さんは「この世で最も小さくされた人々」に対して開かれた教会と理解していると言われました。洗礼を受けていない人に開かれた聖餐は、教会に集う全ての人々と共に、この世で最も小さくされた人々に自分自身の命を捧げたイエスの出来事を思い起こす「しるし」としてあるということです。
★かつて戦時下、日本基督教団の教会は、国家の権力にひざまづき、十戒の第一戒(「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」)に従うことができなかった。このことを繰り返さないために教会は、権力や権威から最も遠いところにいる、最も小さくされた人々へと開かれていく、「自立と共生の場」を目指すべきではないか、と。
★いま日本基督教団では、聖餐式は洗礼を受けた信徒のみに限られるという一方的な意見が支配し、上の牧師さんは、洗礼を受けていない人に開かれた聖餐を行ったことが教団の規則違反とされ、免職処分を受けようとしています。しかし大事なのは、聖餐式をどう行うかということよりも、教会がこの世のただ中にあって、だれと共に、どこに立つのか、という問いなのです。この世の最も小さくされた人々と共に生き、そのために命を捧げたイエス様に従う教会は、だれと共に、どこに立つのか、いつもこの問いを胸に刻んでゆくことが大切なことなのでしょう。(おおくぼ)