10月5日の週報コラム「ひだり手」
★禅についていろいろな本を読んでいる内に、曹洞宗の開祖道元の書いた史上最も難解な書物と言われる『正法眼蔵』に迷い込んでしまい、疲れ果てていたところ、山折哲雄さんという宗教学者の書かれた『早朝坐禅-凛とした生活のすすめ』(祥伝社)という新書版の本を見つけて、比較的軽そうなその題名に惹かれて読んでみました。
★ご自身の主張を「西欧近代科学とは違う、日本伝統文化の特質」という枠に無理にもはめ込まれる所は、あまりイタダケナイ気もしましたが、でもいろいろ示唆に富む本でした。とりわけ禅という「ただ坐る」姿勢に始まって、歩くこと、たたずむこと、食べること、眠ることなど、言葉でない人間の振るまいの意味や意義について、いろいろと考えさせられました。
★牧師の場合、礼拝説教に始まり、聖書研究、出会う方々との対話も、人前でするお祈りも、やはり働きの大半が言葉に関わるものです(ここにこうして文章を書いたりなぞしているのも然り)。それでいつのまにか、何でも言葉次第で、対処したり解決したりできるかのような錯覚に陥ってしまうのです。
★しかしわたしたちにとって、自分自身を見つめ直してみたり、人と共に生きようとしたりということは、決して言葉だけで成り立つものではないんだと改めて思わされます。もちろん言葉はわたしたちが何かを考えたり、伝えあっていく上で、他の何ものにも代え難い大事な道具です。けれどもいま思うのは、自分の身体の感覚や経験からしみ出してくるような言葉を大事にしていきたいなあということです。そんな思いを折に触れて皆さんにお話ししながら、共に分かち合っていければと願うものです。(おおくぼ)