日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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9月21日の週報コラム「ひだり手」

「疲れ、しゃがむ姿に」

★「老い」というものは、ある意味では「疲れ」として訪れるという見方を鷲田清一『老いの空白』という本で読みました。「疲れ」とは一体何なのか。世の中で自分が確固とし地位を保って生きていくためには、いろいろとアレをしなければならない、こうでなければならない、と社会から求められることがあります。「疲れ」とは、そうして社会から求められることが、思うようにそれができない状態であると、著者は言います。やらなければ一人前と見なされないこと、でもそれが思うように出来ない状態、それが「疲れた」状態だと言うのです。でも本当は、そうして「疲れている」人間の姿というのは、シャカリキになって「自分」にしがみつこうとしていない、開かれた人間の姿なのではないかと、著者は言うのです。
★わたしたちは、一人前の大人というものをあらゆる物差しの基準にして、それでもって人を値踏みし、その物差しの求めに応えることができない「疲れ」というものを、悪いもののようにみなします。「疲れた姿」を悪いもののように見なすならば、それはつまりは「年老いた姿」を悪いものと見なすということでもあるのです。けれども「疲れた姿」は、本当に悪い姿なのか。いやむしろ、人間の疲れた姿、疲れてしゃがみ込んだ姿は、人間の年老いた姿、年老いてしゃがみ込んだ姿というのは、本当は人間本来の平和な姿なのではないか、と考えてみるのです。
★「エルサレムの広場には/再び、老爺、老婆が座すようになる/それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして。都の広場はわらべとおとめに溢れ/彼らは広場で笑いさざめく」(ゼカリヤ書8:4~5)。ゼカリヤは、神様の怒りと裁きを乗り越えた新しい時代にふさわしい人間の姿として、しゃがんでいる年寄りの姿を示したのです。神様の怒りと裁きを乗り越えた時代には、人はいきり立って、それぞれ自分自身にしがみついて、自分が自分であろうと戦い、争い、非難しあうのではなく、むしろ、疲れてしゃがみ込んでしまう弱い、不完全な人間の姿をこそ、広場に、中心に据えるべきであると訴えたのでしょう。(おおくぼ)
by oji-church | 2008-09-26 10:01 | 牧師からのメッセ-ジ