日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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9月14日の週報コラム「ひだり手」

 「構えを解いたら」

★牧師になってからずっと、教団の中で差別の問題への取り組みに関わっています。牧師になり立ての頃は、教会はそうした、いわゆる「社会問題」に真正面から取り組む「べきだ」という考えでしたので、誘われて、一も二もなくそうした働きに参加しました。そうして、いろいろな集会や講演会、勉強会を企画したりもしました。
★でも正直なところ、そうした働きが、本当に「差別を無くする」ために役に立っているか、という問いをずっと抱えても来ました。何か、講演会や勉強会を催せば、その時限り、そこに集まった人たち限りは、ひとしきり「差別はいけない」という題目を確認して帰って行きます。でも、差別というものは、当然そうした講演会や勉強会の中で起きるのでなく、ごくふつうの日常生活の中で起きるのです。講演会や学習会で確認した「差別はいけない」というお題目が、そうした日常生活の場で果たして生きているのか、問題はそこのところです。
★実は、講演会や学習会の中で確認される「差別はいけない」というお題目は、「差別に関わるとヤッカイだ」という心配から生じる、いわば優等生的「構え」なのではないか。「差別はいけない」というお題目を唱えていても、実際には、わたしたちの日常生活は、ありとあらゆる差別的な出来事に充ち満ちていて、それにまみれながら、わたしたちは生きているのです。
★部落差別も、外国人差別も、しょうがいを持つ人への差別、性的な少数者への差別も、高齢者への差別も、女性差別も、いろんな差別がわたしたちの周りには充ち満ちていて、だれもがそこに触れる可能性をはらんでいます。むしろそういう現状を認めた上で、「差別はいけない」という表面上の「構え」を解いて、「差別をしてはいけないと思いながら、でも差別をしてしまう『わたし』って何なのだろう?」と互いに考えあっていくことはできないかな? むしろ「差別」というものを前にしたそういう「構え」を解くことが、まずは「差別からの解放」の第一歩なのじゃないかな。(おおくぼ)
by oji-church | 2008-09-17 14:10 | 牧師からのメッセ-ジ