日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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7月20日の週報コラム「ひだり手」

「差別を乗り越えるもの」

《わたしたちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリスト(へ)の信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました》(ガラテヤの信徒への手紙2章15~16節)

★上の聖書の言葉の前半は、あからさまな差別発言であると言ってよいでしょう。「異邦人」という「くくり」に対して、そのまま「罪人」というマイナスのレッテルを貼ってしまっているからです。
★その次の文はどうでしょうか。「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」とは、イエス・キリストに対する信仰を持つ者は、義とされる(=救われる)という意味に読めます。すると、その反対に、イエス・キリストに対する信仰を持たない者は、「救われない」という区別がやはり生まれてくることになります。残念なことに、この区別は、しばしば、「ユダヤ人=義人/異邦人=罪人」という差別の延長線上に、「クリスチャン=義人/非クリスチャン=罪人」という差別を作り上げることに利用されてきました。
★けれども、実際に聖書の本文を読んでみると、もともとここには「イエス・キリスト『へ』の」の「へ」という言葉は無いのです。これを抜き取ると「イエス・キリストの信仰」ということになります。「信仰」とは元来、ある人の持っている「信頼に値する誠実な、ひたむきな態度」と言う意味です。ですから、ここのところは、「クリスチャンの、イエス・キリストに対する信仰によって、クリスチャンは救われる」という意味ではなく、「イエス・キリストの、信頼に値するひたむきな姿によって、すべての人が救われる」という意味に、読まれるべきなのです。差別とは、人間の価値(その人が何によって救われるのかということ)を、このように人間全体を包み込む場所(この場合「イエス・キリストの信仰」)に置くことによって、初めて乗り越えることができるのです。(おおくぼ)
by oji-church | 2008-07-22 09:55 | 牧師からのメッセ-ジ