日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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6月29日の週報コラム「ひだり手」

「引っ込むこと」

★「相手のための空間を作るためには私が引っ込まなければならない。……遍在し全能である神はどこにでもいます。神は、その存在をもって宇宙を充たした。では、どうやって創造は起こり得ただろうか。……神は、引っ込むことによって創造しなければならなかった。彼は、自己収縮、自己集中によって、彼でないもの、他者を創造した。……人間の水準では、私が引っ込むことは、他者が生存する助けとなるのである」(H.J.M.ヌーウェン『傷ついた癒し人』より)。
★プロテスタントの教会というのは、どうしても、言葉が先行してしまいがちです。礼拝の中心は牧師の説教であり、聖書は「研究」するものとして据えられています。
もちろん、説教の言葉も、聖書研究も、とても大切なものなのですが、人間同士の関係は言葉だけによって成り立っているものではなく、多く、言葉にならないものによって結び合わせられたり、引き離されたりしているようにも思われます。とりわけ教会の中では、牧師の語る言葉が力を振るっているかもしれません。牧師は言葉を大切にする上でも、言葉を控え、自分自身を「引っ込める」ことを心がけるべきなのかもしれません。自分の「言葉」が人を救うなどと思ってしまうのは、やはり牧師の傲慢と言わざるを得ないでしょう。
★ナウエンさんは別のページで、こんなふうに言っているのです。「どのような牧師も、だれ一人救えない。彼は恐れている人びとに、導き手として自分を提供することができるだけである。しかしながら逆説的ではあるが、まさにこの導きにおいて希望の最初の徴が見え始めるのである。というのは分かち合われた苦痛は、それが解放への道として理解される時、もはや麻痺させるものではなく、人を前進させるものとなるからである」。
★「だれも救えない」という厳しい事実を自分の傷として刻むことによって、この傷が自ずと人に寄り添い、同伴する力を発揮するということ。このことを、ねばり強く「待つ」訓練をこそ、牧師は積まなければならないのかもしれません。(おおくぼ)
by oji-church | 2008-07-02 10:17 | 牧師からのメッセ-ジ