日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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9月9日の週報コラム「ひだり手」

「何者でもない人生を、生き切ること」

《弱い人に対しては、弱い人のようになりました。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。》(Ⅰコリント9章22節)。
★人間は最初、生まれるとすぐに母親の胸に抱かれ、そこで一番最初に、安心・安全・信頼・満足といった感覚を学ぶのだそうです。その一方で赤ちゃんは「お乳の出るよいオッパイ」と「そうでない悪いオッパイ」を区別して、これが人間の善悪の区別の最初の一歩になるようです。
★けれどもこの区別は、100パーセント「良い」か、100パーセント「悪い」かしかない、幼稚な区別に過ぎません。やがて親の保護を離れて、人間は100パーセント「良い」とも「悪い」とも決めつけられない世界に触れ、自分で判断する力を養っていかなければならないのです。それが成熟するということです。
★「郵政民営化は是か非か」という単純な二者択一や「美しい国」というような大上段な物言いが横行していますが、本来の人間の生き様とはそれほど白黒ハッキリとつくものではありません。しかし白黒ハッキリつかない人間の在り方を、「弱い生き様」としてバッサリと切り捨てようとするのが昨今の風潮のようです。
★「律法に支配されている人に対しては、律法に支配されている人のようになり」「律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになり」「弱い人に対しては弱い人」となったというパウロの姿は、この白黒ハッキリつかない人間の「いのちそのもの」の有様の正直に生きた姿だったのかもしれません。
★白黒ハッキリつかない、つまりは、「何者」という肩書きを得られない人生とは、一般には「挫折した人生」と見なされるでしょう。けれども、イエスという人はまさにそうした「何者でもない」生き様を生きた人でした。パウロはこのイエスの生き様を「福音」と呼び、その生き様に自らの生き様を重ねて生きることを「使徒」という務めの名で呼んだのです。(大久保)
by oji-church | 2007-09-13 10:33 | 牧師からのメッセ-ジ