日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


by oji-church
プロフィールを見る
画像一覧
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

9月9日の週報コラム「ひだり手」

「『福音』とは『生きること』そのものではないか?」

《わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、委ねられている務めなのです》(Ⅰコリント9章16~17)。
★ここでパウロが「福音を告げ知らせる」と言って、自分の「働き」として言い表そうとしていることは、何か特別に「高尚な任務」というわけではないように思います。パウロが「福音を告げ知らせる」という言葉で言い表そうとしているのは、いわば「生きる」ということではないでしょうか。
★「生きる」とは、ひとたびこの世に生まれてきてしまったからには、ひとたびいのちを与えられてしまったなら、誰しもひとまずは、さしあたっては、生きていかざるをえない。すなわち「そうせずにはいられない」ことです。それをしないこと、つまり「生きている」のに「生きない」ことは、やはりわたしたちにとって「不幸」なことでしょう。さらに、誰も自分から望んで「よし、生まれよう」と生まれてくる人はなく、いわば「強いられて」やっているのが、わたしたちにとっての「生きる」ことに他なりません。
★「生きる」とは、実は本来誰もがやっていることで、「誇り」となることではありません。でも、わたしたちはしばしば、この「生きる」ことの本当の在処を忘れて、能力とか経済力とか利益を生み出す力とか、そんなものでお互いを測り、測られて、自分を誇ったり、他人をけなしたりしています。
★パウロが、こうした本来の意味での「生きる」ということを、「福音を告げ知らせる」という言葉で言い表しています。そこには、「誇り」にもならない、でも何かの物差しで測り比べられない、生身の、裸の人間の、赤裸々ないのちの営みの傍らにこそ「イエスは共にいる」というパウロの思いが息づいているのでしょう。(大久保)
by oji-church | 2007-09-05 11:50 | 牧師からのメッセ-ジ