日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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3月11日の週報コラム「ひだり手」

「部落解放の集会に参加して」

(今回は、教会員のF・Kさんが、書いてくださいました)

★北支区と東京教区の上記の集会が2週連続で開かれた。
★今まで、社会部主催の集会に参加したことはあったが(北支区常任委員で社会部担当をしていた)、部落解放関係のものには、縁がなかった。
★牧師から「ひだりて」に感想を書いてほしいと依頼されたので寄稿します。
★北支区の集会には教団部落解放センターのメンバーの東谷誠さんという方が、自分の娘の結婚の際のいわれもなき差別にあった話をされた。自分たちは、そのような時、耐えられるかな? と思った。娘さんの歳もわが娘とほぼ同じくらい。身につまされた。ぼくが若かりし頃、フォークシンガー・岡林信康の「チューリップのアップリケ」という歌が、まさに、被差別部落出身者の歌だった。あれから半世紀とまでいかなくても、まったく何も変わらない。あの歌を聞いたとき、いつかそんな差別がなくなる時代がくればいいなぐらいの感想だった。自分ではどうしようもできない差別。自分で、何らかの方法で乗りこえることのできるもので、自分の力不足でできないのなら、あきらめもつく。力をつければいいことなのだから。部落の歴史については、学べば学ぶほど、その形成の奥底には、人間の罪のようなものが横たわっている。そして、大久保牧師の説教を通して、その罪をイエスが生き方を通して負ってくださった。だからイエスを主として告白するということと部落差別をしないということと同じだと思う。社会の不条理なものと闘うことと教会形成とは切り離されるものではないと思う。イエス自身が、命を懸けてそういう社会の不条理と闘った。差別されたものと食事をし、ともに生きたことは聖書の全体の流れ(とくに福音書はそうだ)である。ひとりひとりの心を解放するのが先決で、それから社会の問題を考えるのが教会の本来の姿だという考え方には与したくない。いや、与してはならない。(あまり、ねばならないということばは使いたくないのですが……)。少なくとも、そういうものと闘っている人たちの邪魔はしない。ひとりひとりができる形で、応援したい。
★東京には被差別部落は存在しないという見方がある。でも、東京に被差別部落出身者がいないなんてことは、決してあるわけない。被差別部落という形で見えないだけだ。もし、彼らが、この教会に来られたとき、知らず知らずのうちに、彼らを傷つけてしまうということだって、あるはずだ。見えないだけに、その可能性の方が大きいと思う。まず、教団の部落解放方針を読むことから始めたい。
★大久保牧師が来られて、マルコによる福音書の連続説教を通して、頭の中に「もやもや」と生まれたものが、この二つの集会を通して、いくぶん「スッキリ」したことは確かなことです。
by oji-church | 2007-03-13 17:08 | 牧師からのメッセ-ジ