2月25日の週報コラム「ひだり手」
★去る2月15日、わたしが神学校で歴史神学を学んだM先生が天に召されました。昨年秋から入院しておられたことを知らず、その週の週明けに知人から知らされ、折しも15日に病院にお見舞いに行こうとしていた矢先でした。卒業後も先生のゼミに通い、細々ながらキリスト教史の勉強をしていましたが、今年度は教会の都合と重なり出席できなかった、その間の訃報でした。
★わたしに期待を掛けてくださり、卒業時には「これを翻訳しなさい」とドイツ語の教理史の本を手渡されました。最初の内は勇んで翻訳を始めたものの、だんだんと苦痛になり、やがて放り出してしまった。でも卒業から4年ほど経ってから、思い直して少しずつ翻訳を進め、ようやく完成させて先生に原稿を手渡した時には、卒業からすでに7年が経過していました。
★地味な先生でしたが、学生と一緒に学ぶことがお好きで、わたしはこの先生から、キリスト教の歴史を学ぶ意味を教えられました。
★生意気な神学生で「キリスト教の歴史になんて学ぶものはない」と思っていたのが、ひょんなことから歴史神学のゼミに入ることになり、右も左も分からないダメ学生であったにも関わらず、君は歴史を勉強しなさいと教え諭して下さいました。
★キリスト教史を学ぶ中で、そこには「人間の過ち」がうずたかく積み重なっていることを学びました。そして何よりも、同じ過ちを自分自身も犯しいることを学びました。しかし、それにもかかわらず、その歴史を越えて、イエス様の宝のような息づかいが現代に至るまで響いていることを学びました。(大久保)