日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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6月11日の週報コラム「ひだり手」

教育基本法「改正」案を読む(3) 「国を愛する」を考える③

神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものではない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20~21)
「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」(フィリピ3:20)


★「国」=「国家」というのが、あくまで富を集めてきて、それを分配する目的で、人為的に造られたものだとするなら、「国」自身が「国を愛せよ」と言い立てることの目的は、やはりあくまで「国」に富を集めるための侵略や収奪・搾取に人々を駆り立て、人々に犠牲を強いることより他にはありません。どんなにそれを「文化」や「伝統」で覆い隠そうとしても、「国」が自ら言い立てる「国を愛する」ということは、やがて人々を戦争や競争に駆り立てることに、必ず結びついていきます。
★それでは、「国」を愛することは、どうしたって不可能なのでしょうか。それでも「国」を愛せる可能性はあると思います。それは、あくまで「生身に触れ合う関係を大切にしていく」ということです。わたしたちが愛すべき人間同士の結びつきというのは、ある範囲を区切って「ここからここまで」というものではないのです。それよりもわたしたち一人一人が生きているその場で出会い、経験する結びつきそのものを愛するということです。
★「国」(=人々の結びつき)というのは、あくまで「あなたがたの間にある」と聖書は語ります。決して自分の生きる場をある「範囲」で区切らずに生きていくならば、わたしたちは様々な人々と出会い、触れ合うことになります。日本人もおり外国人もいます。よき伝統を分かち合う関係を持てることもあれば、かつてや今の日本の「国」の誤りを指摘する人もいます。でも、そういう出会いを一つ一つ、そのたびごとに大事にしていくということです。
★一つ一つの生身に触れる出会いをそのたびごとに大切にしていくことを通じて、初めてそこに「愛する」関係が生まれてきます。その場所こそが「わたしたちの本国」であるということ。決して「国」や「文化」や「伝統」が先にあるのではなく、わたしたちが国籍などに関わりなく、生身に触れる人間と人間の出会いを、そのたびごとに大切にしていく場所に、わたしたちが本当に愛する、わたしたちの「生き場」が生まれてくるということでしょう。
by oji-church | 2006-06-12 13:49 | 牧師からのメッセ-ジ