日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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4月30日の週報コラム「ひだり手」

《ひだり手》       「弱い」言葉に耳を澄ませば
「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、…来たのである」(マルコ10:45)。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6~8)。


★宗教あるいはキリスト教を巡る言葉には、「荘厳」「厳格」「厳粛」「敬虔」「聖典」「正典」「真実」「真理」「伝道」…といった「強い」言葉がたくさん貼り付いています。これらは元来は、人間を遙かに超えた「神の強さ」を表す言葉だったのでしょうが、やがていずれもが、その宗教を司る、あるいはその宗教を信奉する「人間の強さ」を表す言葉になってゆきます。そうしてその強さは、人間の間で〈聖職者〉→〈信仰者〉→〈未信者〉という順に、強い方から弱い方へと序列化されていきます。キリスト教もやはり、そういう「強さの序列化」を長い歴史の中で形づくってきました。
★しかしキリスト教の一番最初の一粒であるイエス様の生き様、その中から響くわたしたちへの呼びかけは、むしろそうした「強い」言葉によって言い表される人間の「強さ」を、徹底して退けていく(拒否していく)闘いだったのではないでしょうか。試しにマタイ福音書の山上の説教からイエス様の言葉を拾ってみると、「心の貧しい人々…悲しむ人々…柔和な人々…」「地の塩、ともし火」「わたしたちに必要な糧…」「空の鳥、野の花」「パンを欲しがる自分の子ども…」等々。これらは当時の価値観から言えば徹底的に「弱い」言葉、「弱い」存在の羅列に他なりません。イエス様は「弱い」言葉を敢えて選び取ることで、人の世の序列化へと至る「強さ」を徹底して退けたのです。上のマルコ福音書の言葉の前にある「異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない」という言葉がその辺りの消息を伝えています。
★教会にとって「信仰」の道筋というのは、この「弱い」言葉の響きにこそ、耳を澄ませていくことなのではないでしょうか。聖書の中にも「強い」言葉はたくさんありますが、上の二つの聖書の言葉は、「弱い」言葉の奥深くに隠された「かけがえのないもの」の在処を示しているように思います。「強い」言葉の方が耳に入りやすく、わたしたちはそれに心を奪われがちですが、むしろ「強さ」というものを徹底して退けて、「弱い」言葉にこそ深く耳を澄まし、その奥底に響く「かけがえのないもの」を見つけてごらん、というのが、神様からわたしたちへと託された、実はとても重い課題なのです。(大久保)
by oji-church | 2006-05-08 12:42 | 牧師からのメッセ-ジ