日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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3月19日の週報コラム「ひだり手」

《ひだり手》  「教会」とは何なのか?(12) 「『従うこと』と『律法主義』」(4)
「だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るもの影にすぎず、実態はキリストにあります」(コロサイの信徒への手紙2:16~17)
★「キリストに従う」ということは、自由に向かって解放されていく歩みに他なりません。しかしひとたびわたしたちが、「キリストに従っていこう」と集まり、教会という場を形づくり始めると、上の聖書の言葉にあるような「食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のこと」といった慣習的な規則が次から次へと生まれてきて、それによって、わたしたちは自由を失ってしまうことがあります。
★人の集団というものは、規則を作りたがるものです。ひとたび人が集まって集団を形づくると、その集団はひとりひとりの人間の意図や発想を越えて、集団そのものを守ろうとして、やたらと規則や規制、慣習を生み出し、それを人にまもらせようとするのです。
★教会という人の集まった場所において、わたしたちはこのことに気をつけたいと思います。もちろん、規則なんて無くっていいというわけにはいかないでしょう。ユダヤ教の律法は規則ですが、「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものです」(ローマ7:12)。しかし「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました」(ローマ7:7~8)という現実がわたしたちにはあります。
★むしろ教会は、規則を考えるとき、いつも「イエス様がどのように生きたか」を念頭に置き、そのことが実現するように工夫がされなければなりません。この「イエス様がどのように生きたか」をいつも念頭に置く、ということが、実は「キリストが頭(かしら)である」ということの意味なのです。
(大久保)
by oji-church | 2006-04-16 15:42 | 牧師からのメッセ-ジ