8月20日の週報コラム「ひだり手」
★戦争から72年目の8月を迎えています。先月誕生日を迎えて48歳になりました。戦争後の72年とわたしの生きてきた48年とを引き比べると、丁度この敗戦後72年の3分の2の時間を生きてきたことになります。8月を迎える度に、わたしたちは戦争によるあまりにも多くの犠牲に思いを致し、平和を求めて礼拝を行っていますが、70年以上にわたってそれを積み重ねてきながら、いまのわたしたちを取り巻く状況を見ると、70年経ってまた、戦争の前に舞い戻っているかのようです。「特定秘密保護法」「安保法制」「共謀罪」と、いずれも戦前、民主主義の存在しなかった日本で、人々を国の都合で操り、戦争へと駆り立てる諸々の法律が定められていきましたが、それと同じものがいま、出揃っている有様です。この72年間、わたしたちは何をやってきたのか。少なくともその3分の2、半分以上の責任を、わたし自身も負っているのです。今からでも遅くない。そう信じて、なすべきことをなしてゆきたいと願うものです。
★わたしたちが平和を形作ってゆくために、まずなすべきことは何だろうか。イエス様は「もっとも小さい者にしたことが、わたしにしたことなのだ」と言われます。わたしたちは、この世界で「もっとも小さい者」を見つけることはできません。「もっとも小さい者」とは「わたしよりも小さくされた者」のことなのでしょう。平和を求めて進む時、それは、あの戦争によって無念の死を遂げた人々のことではないでしょうか。すくなくともいまここにいるわたしたちは、戦争によって命を奪われてはいないのですから。戦争によって無念にも命を奪われた人たちの、その声に耳を傾けること。それが平和を求めて進む時、わたしたちがまずなすべきことではないでしょうか。亡くなった人は声を挙げることはできません。それでもなお、その声なき声に耳をそばだてようとするとき、きっと聞こえてくる声があるはず。イエス様もそう言われています。「この人たちが黙れば、石が叫びだす」(ルカ19:40)と。平和を求める石の叫びに耳を寄せ、それをわたしたち自身の声として、平和を求め、形作ってゆきたいと願います。