日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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8月13日の週報コラム「ひだり手」

「余計なこと」(3)

★「お前は俺たちの何だ?」。この叫びに対してイエス様は「自分は関係無い」と引き下がるのではないです。「黙れ、この人から出て行け」とお叱りになった。このイエス様の台詞は一見すると、この「悪霊に取りつかれた人」に向かって叱りつけているように聞こえますが、ちがうんじゃないか。むしろこの人をよってたかって虐めて、排除するあのいじめっ子たちに向かってこそイエス様は言っているんじゃないか。そんな気がしてきました。
★灰谷健次郎さんという児童文学者の『太陽の子』という作品の中には、こんな言葉が出て来ます。「いい人ほど勝手な人間になれないから、つらくて苦しいのや、人間が動物とちがうところは、他人の痛みを、自分の痛みのように感じてしまうところなんや。ひょっとすれば、いい人というのは、自分のほかに、どれだけ、自分以外の人間が住んでいるかということで決まるのではないやろうか」。主人公のふうちゃんという小学六年生の女の子の思いです。「感じて『しまう』」というのは、そうしようと思わなくても、それを「感じてしまう」ということです。そのようにわたしたちのいのちというのは、実は目に見えるわたしたちのこの身体の外にもはみ出して、広がって、人と出会い触れあい、やがて自分のほかの、自分以外の人の「痛み」や「悲しみ」が住むようになる、ということではないだろうか。
★人の「痛み」や「悲しみ」なんて、自分が幸せに暮らすためにはまさに「余計なもの」に思え、そんなものに「手を出すな」「考えるな」と思われるかもしれません。だけれども、わたしたち人間は、自分をはみ出して自分以外の人と出会い触れ合って、お互いにその「悲しみ」や「痛み」を自分の中に住まわせることを通じて、初めて、お互いを理解し合い、お互いを大切な存在、かけがえなく、愛おしいものとして見つけ出すことができるのではないでしょうか。それは決して「余計なもの」などではないでしょう。
by oji-church | 2017-08-18 13:31 | 牧師からのメッセ-ジ