日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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1月29日の週報コラム「ひだり手」

「『誇り』はどこからやって来る?」(2)

★2011年の3月11日の震災後、何度か救援に行きました。今から思えば、そこでわたしがやった救援活動など、いかほどか役に立ったのか、誠に心許ないものでした。ただ、そこで奥羽教区の教会の人たちから教わったことがあります。何かといえば、とにかく体を動かすのだということ。確かに救援の働きそのものの成果はほとんど無きに等しいものだったかもしれませんが、しかしとにかく体を動かして進んでいった時、その先には必ず誰か『人』がいました。苦悩と痛みと悲しみを背負った人たちです。その人たちに対して、わたしも小さな存在に過ぎず、何も役に立つことは出来なかったけれども、少なくとも、そこに向かって身体を動かして進んでいったことで、その人の苦悩と痛みと悲しみの一端を、分かち合うことができただろうか」。そんな思いを持っています。
★人間とは小さな存在です。災害や、国々の大きな権力の横暴による戦争や、大勢の人の塊によって引き起こされる差別や抑圧や、排除や反目を前にして、一人ひとりの裸の人間は誠に弱く、卑小な存在です。だけれども神様は、そんな小さな身の丈のわたしたち一人ひとりに、裸の「わたし自身」を与えて下さいます。そうして、そういうお互いの弱く小さな「わたし自身」を出会わせ、つなぎ合わせていくとき、そこに本当の「誇り」、身の丈に合ったと言っても、実はそれ以上に誇るべきものなどあり得ない、大いなる「誇り」が訪れるのでしょう。「誇り」というものは、「オレってスゴイ」「日本ってスゴイ」と、いくら自分で自分を誉めそやしてみたところで、本当の誇りというものは生まれては来ないでしょう。「誇り」というものは、小さな身の丈の自分自身を担い、その小さくて無力な自分自身を、他の小さく無力な人に触れ合わせ、その小ささ故の弱さや痛みや苦悩や悲しみを分かち合う中から、自ずとわたしたちのもとを訪れてくるものなのでしょう。
by oji-church | 2017-02-02 15:19 | 牧師からのメッセ-ジ