日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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8月21日の週報コラム「ひだり手」

ほんとうの自由(1)
★ローマ帝国は、「帝国への忠誠」を誓い、皇帝崇拝に従う限りにおいては、「パンとサーカス」という楽しみを手にすることができました。けれども、果たしてそれは「本当の自由」でしょうか。「崇拝」というのは、心の奥底の一番深いところで行われる振る舞いでしょう。その心の奥底の一番深いところで行われる振る舞いを、自分の思いではなく、命令を受けて行うとしたら、わたしたちは自分自身の一番深いところを、他人の手に譲り渡してしまうことになります。自分自身の一番深いところを他人の手に譲り渡してしまったとしたら、やがて、そんなに深くないところも、他人の意のままに操られることになってしまいます。十戒の掟で神様が語る「わたしをおいて他に神があってはならない」という教えが意味しているのは、自分の「底」に神様以外の誰かの手を入れさせてはならないということなのだと思うのです。そのようにして、自分を誰かに譲り渡してはならないということです。
★戦前の日本は、このローマ帝国と同じような状況にありました。国の主権者は天皇であり、国民は「天皇の臣民」でした。憲法も国民が議会を通じて作ったものではなく、天皇から与えられたという形を取っていました。そして天皇を崇拝することが国家によって、絶対的なこととして要求されました。国は天皇崇拝(国家神道)は宗教ではないから、たとえクリスチャンといえども、これに従わなければならないとしました。戦前の大日本帝国憲法にも「信教の自由」が定められていましたが、その文面はこういうものでした。「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」。天皇崇拝、国家神道、例えば神社参拝などを行わなければ、「臣民たるの義務」に背くことになります。そうなれば、キリスト教は国家に反逆するものとして弾圧の対象となります。しかし、戦前の日本においても、ローマ帝国においてそうであったように、多くの人々は、さほど不自由を感じずに暮らしていました。(つづく)
by oji-church | 2016-08-24 12:27 | 牧師からのメッセ-ジ