日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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2月7日の週報コラム「ひだり手」

神への「負け」

〈主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです〉(エレミヤ書20章9節)。

★信仰なんて持たないほうがよかったと思うこともあります。信仰を持ったばかりに、わたしたちが生きているこの時代に、神様は何を求め、呼びかけているのかを問われることになります。結局多勢に無勢で、この世の中で「負け」を味わわなければならなくされます。そんな状況を預言者エレミヤは神様に対する「わたしの負け」と語っています。エレミヤはこの世にも負け、神様にも負け、という四面楚歌の「くぼ地」へと落ち込んでしまっています。
★くぼ地は日当たりも悪いし、雨が降れば周囲の水が流れ込んでくる辛気くさい場所です。でも一つ言えることは、くぼ地は周りの高い土地よりも、大地の真ん中に向かってはより近くにいるということです。そしてこの大地は神様が造ったものだと聖書は語っています。つまり、この大地を造られた神様のより近くにいるということでもあるわけです。
★「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピの信徒への手紙2章6~8節)。イエス様の生き様もまた「高み」を目指すものではなく、低く下ってくぼ」を目指すものでした。この世の多くの人々の「勝ち」と、神様の「勝ち」とは実は意味するものが決定的に違います。この世の多くの人々の「勝ち」は、自分だけの勝利、栄光、高みを目指すものです。だけれども神様の「勝ち」は、神様によって命与えられたすべてのものが「見よ、それは極めて良かった」という喜びの呼びかけを受けることへと向けられた「勝ち」です。だから、この神様の「勝ち」の前にわたしたちが負けることは、むしろ、すべて命を与えられてこの世に生きる者たちが、喜びの呼びかけを受けることへと向かう道なのです。
by oji-church | 2016-02-10 14:24 | 牧師からのメッセ-ジ