日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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1月10日の週報コラム「ひだり手」

 「苦労」の傍らにある「負け」

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイによる福音書11章28節)。「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネによる福音書16章33節)。

★イエス様は「わたしは既に世に勝っている」と言われます。しかしイエス様は十字架に掛けられた殺された人でした。それは、この世の物差しから言えば、明らかな「負け」に違いありません。でもイエス様のこの明らかな「負け」が、ユダヤやローマ帝国の権力を持つ人たちの「勝ち」よりも、はるかに深い魂の震えを人々の心に刻んだのでした。それはイエスという人の生き様から響いてくるものでした。イエスという人はいつも、苦労している人、重荷を負っている人を招き、寄り添って生きた人でした。その人生の果てに、十字架に掛けられて殺された人でした。そのようなイエス様の生き様はしかし、人々にとって、その「負け」をさえ突き破り突き抜けて、苦しんでいる人、重荷を負う人のその苦労に、どこまでも寄り添い続けていく力強さを湛えていました。それは人間のどんな力を持ってしても敵わないものです。
★イエス様が「休ませてあげよう」と語るのは、このような苦労している人、重荷を負う人のその苦労、重荷に、イエス様の「負け」でありつつ「勝ち」である働きを、どこまでも寄り添わせていくぞ、という呼びかけなのでしょう。苦労や厳しさは相変わらずあるのだけれども、そのわたしたちの苦労や厳しさの傍らに、どこまでもイエス様の「負け」が共にいてくれるということ。「柔和で謙遜な者だから」。自分の「勝ち」にこだわらない、イエス様の柔らかさ、他者のために心砕く生き様がそこには響いています。
by oji-church | 2016-01-13 09:42 | 牧師からのメッセ-ジ