日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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3月1日の週報コラム「ひだり手」

力へのあこがれ

〈荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた〉(ルカによる福音書4章1節)。

★ここでの悪魔の誘惑はいずれも人並み外れた「全能の力」に関わっていることが分かります。一つ目の誘惑は「石をパンに変えられる」という自分自身の「全能の力」。二つ目は、「悪魔を拝むなら、全世界の繁栄と権力を手に出来る」という、悪魔の「全能の力」。言い換えれば自分以外の誰かの「全能の力」をあてにすること。三つ目は、聖書の言葉、つまり神様の言葉が引き合いに出されています。そこには、神様の「全能の力」をあてにするという姿勢が語られています。
★けれどもイエス様はどの誘惑も退けます。わたしたちは生きている中で、どこかでふとそんな「全能の力」にあこがれを懐くものです。それは「自分自身にそんな全能の力があったら」というあこがれであったり、自分以外の誰かの力にあやかりたいというあこがれであったりします。人間でなくても、神様の全能の力をにあやかりたいというあこがれもあります。
★力に対するあこがれは、全世界の権力と繁栄を手にしたら世界全体に平和をもたらそうというような、よいことにも用いることができるでしょう。しかし、人間の懐く力へのあこがれというのは、どんなによい動機から生まれたものであっても、結局は自分自身の願望を遂げようという、自分を真ん中に置いた思いから生まれてくるものです。自分を真ん中に置いた思いは、やがて必ず自分以外の人間のことを疎ましく思い始めます。なぜならこの世に誰一人として自分と同じ人間はいないから。自分とは違う自分の周囲の人を疎ましく思い、いなくなって欲しいと思うようになるでしょう。でも周囲の人がいなくなってしまえば、自分自身だって生きられなくなるのです。「力へのあこがれ」というのは結局は、必ず、人を死へと導くものなのです。
by oji-church | 2015-03-04 11:23 | 牧師からのメッセ-ジ