日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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2月8日の週報コラム「ひだり手」

十字架という光

〈父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を表すようになるために、子に栄光を与えて下さい。〉(ヨハネによる福音書17章1節)

★イエス様は、自分が十字架に付けられて殺されることを「栄光」と呼びました。そんな無残なことがどうして「栄光」でありえようか。そう思います。でも、もう一度考えてみるのです。「栄光」というのは、そのまま訳せば「光」です。それは神様がこの世に向かって投げかける光」。この世は、あまりにも多くの人の悲しみや苦しみに満ちあふれた闇としてあります。そこに神様は光を投げかけるのです。あまりにも多くの人々の悲しみや苦しみに満たされたこの世という闇に投げかけられる光って、いったいどんなものでしょう。それは多くの人々の苦しみや悩み、悲しみを共にするということ、同じ苦しみや痛みや悩みや悲しみを一緒になって経験するということ。それこそが多くの人の悲しみや苦しみに満ちあふれたこの世の闇に投げかけられる、ただ一つの光となるものではないでしょうか。
★この十字架の上で、イエス様は多くの人の苦しみ、悲しみに満ちあふれたこの世の闇を、自分自身の生身そのものをもって経験されました。この世の中で、苦しみのうちに生き、そうして嘲られ、いたぶられ、クズのようにうち捨てられていく痛み、苦しみを、自分自身の体の経験として知りました。それは、この世にあって苦しみ、痛み、悲しみに満たされた人々にとって、本当の意味で光となることではないか。この痛みを知っているのは、わたし一人ぼっちじゃないということ、イエスという人が、同じ痛み、苦しみを味わい、だからこそ、より深く、全くわたしのことを分かっていてくれるということ。それは、痛み苦しみに満ちあふれたこの世の闇にあって、本当の意味での光となることではないだろうか。
by oji-church | 2015-02-11 10:01 | 牧師からのメッセ-ジ