日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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2月1日の週報コラム「ひだり手」

武装する「わたしじゃない」と、丸腰の「わたしだよ」

〈シモン・ペトロは立って火に当たっていた。人々が、「お前もあの男の弟子の一人ではないか」と言うと、ペトロは打ち消して「違う」と言った。〉(ヨハネによる福音書18章25節)

★ここでペトロの言葉として「違う」と訳されているところは、元のギリシア語では「わたしではない」と書かれています。そのすぐ前のゲッセマネの園の場面では、イエスを捕らえようと武装してやってきた人々に対して、イエスは「誰を捜しているのか」と問い、「ナザレのイエスだ」と言われると、「わたしである」と答えています。ここではイエスの「わたしである」という言葉と、ペトロの「わたしではない」という言葉とが鮮やかに対比されています。
★武装してやって来た人々の前でイエスは丸腰のまま「わたしである」と答えました。一方ペトロは剣で武装しており、その剣で大祭司の手下に打ってかかり、右の耳を切り落としたと書かれています。丸腰で「わたしである」と答えるイエスと、武装して「わたしではない」と答えるペトロとがここにいます。二人は大祭司の屋敷の中とその中庭というすぐそばに居ながら、二人の間には遠い遠い距離が開いてしまっているといわなければなりません。
★わたしたちもまたペトロと同様に、さまざまなもので武装し、自分自身を装っています。武器のみならず、お金であったり、地位や名誉であったり、時に自分自身の誠実さや謙虚さによっても。しかしそれらの武装は、ただ生身で裸の丸腰の「わたし」をただ「わたしである」と示し、開いて、丸腰の「わたし」自身を愛することから、わたしたちを遠ざけます。イエスがおられるのは、ただ丸腰の自分自身を敵味方の壁を越えて「わたしである」と開いていく場所です。それができなかったペトロに、イエスは福音書の最後に、やはり丸腰の復活の姿で歩み寄り、「あなたはわたしを愛するか」と三度問いかけ、わたしたちとイエスとの間の隔たりを取り除こうとされるのです。この丸腰のイエスを大切に思うことによって、わたしたち丸腰の自分自身を愛し、「わたしである」示し、開いていくことへと導かれるのでしょう。
by oji-church | 2015-02-05 15:41 | 牧師からのメッセ-ジ