日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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1月25日の週報コラム「ひだり手」

「如何にして善く生きんか」

★およそ100年前の1912年、乃木希典将軍が明治天皇の死去に際して「殉死」した事件に触れながら、柏木義円という群馬県で牧会していた牧師さんがこんなことを書いています。「武士道時代には生命を重んずる思想が欠けて居りました。下の者に対しては切棄て御免、下司下郎の生命は大根や蕪青の如く、同列に対して果し合いの容易なりし事、上に対しての殉死、何れも自殺の思想と相通ふ所があって、何うしても生命を軽んずるの気風があった事は否むことは出来まいと思います。喧嘩腰、戦争本位で成立て居た社会では、これも止むことを得ないでありましたろう。併し将来の社会は、如何にして善く死せんかが大切でなくて、如何にして善く生きんかを大切と為す時代であります。」(1912年10月15日『上毛教界月報』「乃木大将と自殺」)
★今わたしたちは柏木義円が「将来の社会」と呼んだ社会に生きています。しかし今のわたしたちの社会は、競争は激化して世界大の競争社会となり、「殺(や)られる前に殺れ」という風潮が世界をおおい、弱者の犠牲はやむを得ないこととされているようでもあります。哲学者キルケゴールは「死が最大の危険であるときには、人は生きることをこいねがう。しかし、さらにおそるべき危険を学び知る時、人は死をねがう」(『死に至る病』)と語りました。競争の中で犠牲とされ絶望した者は、自他共なる死をねがうようになります。その他多くの人はただ自分の平穏無事な死を生活の目標に据えているようでもあります。そんな「如何に死せんか」という思想が暗雲のようにわたしたちの社会をおおいつつあるような気がします。
★100年前に柏木義円は、「いかに死ぬか」という思想よりも「いかに生きるか」という思想のほうが大切と訴えました。いま、わたしたちは「成長か死か」というようなスローガンに翻弄されて「死ぬ」思想を植え付けられるのではなく、小さくはあっても、今あるひとときひとときを「生きる」思想を紡いでいくことが肝要ではないでしょうか。そんなことを考えさせられた一週間です。
by oji-church | 2015-01-29 09:05 | 牧師からのメッセ-ジ