日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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12月7日の週報コラム「ひだり手」

失敗を背負う者のもとに

〈主よ、いつわたしたちは、……病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。〉(マタイによる福音書25章37~39節)

★改めてこの場面を読んでみて、あることに気づかされした。最初に呼びかけられたグループの人はこう言っています。「主よ、いつわたしたちは、……病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」。この人たちは、自分がおこなって来た、小さくされた人たちへの親切や大事にする行為、食べ物・飲み物を人に与え、宿を貸し着物を与え、病気を見舞い、牢獄を訪ねたりする、そういう「善いこと」は全部失敗だったと思っているのです。一方、後半の人たちは反対に「いつ、食べさせなかったでしょうか。飲ませなかったでしょうか。貸さなかったでしょうか。着せなかったでしょうか。世話をしなかったでしょうか」。自分たちのやった善いことは、全部成功だったと思っている人たちなのです。イエス様はどちらの人間を受けとめ、迎えるかというと、成功したと思っている人たちではなく、失敗したと思っている人たちの方なのです。
★聖書の中でイエス様は、「いちばん偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕となりなさい」と教えておられます。わたしたちはこのイエス様の教えを真剣に受けとめなければいけないと思います。願わくは、愚直にこのイエス様の教えに従って生きていきたいと思います。けれども、恐らく、いやきっと、わたしたちはこのイエス様の教えに真剣に愚直に従おうとすればするほど、壁に、行き詰まりにぶち当たるでしょう。しかもその壁とは、行き詰まりとは、他ならぬ自分自身の不徹底さ、中途半端さ、怠惰さなのです。そうしてわたしの「善いおこない」は全部失敗だったと思わざるを得ない。けれども、そんな失敗を背負った者をイエス様は迎え入れ、受けとめ給う。わたしたちがこの待降節に待ち望むのは、そんなイエス様との出会い、そんなイエス様の来臨なのです。
by oji-church | 2014-12-10 12:30 | 牧師からのメッセ-ジ