日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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6月8日の週報コラム「ひだり手」

「部分品」の福音?

〈はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない〉(マルコによる福音書10章15節)。
★レオ=レオニの絵本『ペツェッティーノ』は、体の小さな主人公が、自分は誰かの「部分品」じゃないかと思って、自分を探しに出るお話です。でも、どんな小さな存在でも誰かの部分品ではありません。
★子どもは価値の低い部分品だなんて思っていたら、神様が働いている場所には辿り着くことなんて到底できないよ、というのがイエス様の教えられたことです。でもこれは、聖書の中の弟子たちに限ったことではないかもしれません。子どもたちと一緒に礼拝を守る時、子どもが落ち着きなくて厳粛な礼拝の雰囲気が壊されてしまうとか、子どもと一緒の礼拝だと、牧師の説教が子ども向けになってしまって物足りなくなってしまうとか、そんなことを時々言われます。けれども、子どもに向かって語られる福音の価値と、おとなに向かって語られる福音の価値と、福音の価値には何の違いもありません。こどももおとなも誰一人部分品ではなくて、いのちの全部の重みを宿した同じ重さの存在であるように、子どもに向かって語られる福音も、おとなに向かって語られる福音も、いずれも福音の全部の重みを宿した福音であることに変わりはありません。
★子どもへの福音は決して部分品ではありません。落ち着きのない子どもと一緒の礼拝は、決して部分品の礼拝ではなくて、どの礼拝もいつも神様との出会いの全部の重みを宿した大切な礼拝なのです。これを、子どもと守る礼拝は部分品の礼拝、子どもと一緒に聞く福音は部分品の福音と思ってしまうのだとしたら、それはたぶん、神様との出会いの豊かさ、福音の豊かさの半分以上、いや、ほとんど全部を見失ってしまうことになるでしょう。なぜならどの礼拝もどの福音も、神様との出会いの全部、福音全部の重みを宿しているのですから。
by oji-church | 2014-06-12 09:52 | 牧師からのメッセ-ジ