日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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11月17日の週報コラム「ひだり手」

「いまから百年前に」

★11月12日に用事があって群馬県館林市にある「足尾鉱毒事件田中正造記念館」を訪ね、帰りには渡良瀬遊水地にも立ち寄りました。渡瀬遊水地は、足尾の鉱毒被害にが東京に及ばないために時の政府が鉱毒被害を渡良瀬川流域にいわば「押し込める」目的で作ったものです。この地にあった谷中村は、村民が強制移転させられ、遊水池に沈められることになりました。
★谷中村が遊水池の候補に挙がると、鉱毒問題に取り組んできた田中正造は1904年(明治37年)谷中村問題に専念するために谷中村に移り住み、1913年(大正2年)に谷中村支援の資金調達に奔走する中に倒れ没するまでの9年間、強制撤去の「辛酸」(正造の言葉)に見舞われる谷中村に関わり続けます。正造ははじめ、村民の「百人中九十九人」が鉱毒の害を忘れて、解決すべきは「水害」だと思い込み、水と毒の区別を知らないばかりか、「社会上の義務と権利」の何たるかも知らない(小松裕『田中正造』より)有様に憤慨し「谷中の事ハ自業自得」とまで言って、谷中村民に批判的でした。
★1907年(明治40年)8月25日、谷中村は大洪水に遭い、残っていた村民の仮小屋(家は既に政府によって破壊されてしまっていました)は流されてしまいます。正造は高齢の残留村民の身を案じて舟を出して村民の救出に向かいました。ところが村民は意外にも「何れも仮小屋の中に小舟を浮かべ、あるいは木につかまって激浪に揺られながら、案外平然としていた」(島田宗三『田中正造翁余録』)のです。その村民の姿に接して正造は、それまで自分が村民に対して「教えてやる」「聞かせてやる」という姿勢で、村民から「学ぶ」「教えを受ける」「聞く」姿勢がなかったことを悟るのです。このことが転機となって、田中正造は単に鉱毒被害に取り組まない政府を批判するだけでなく、「自然の解決ハ天の業ならざるなし」「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」といった深い経験的な思想を生み出していくことになります。まったくそのまま、現代の原発による放射能汚染被害の有り様と重なります。
by oji-church | 2013-11-20 09:48 | 牧師からのメッセ-ジ