11月10日の週報コラム「ひだり手」
〈わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。〉(コリントの信徒への手紙一第11章23~24節)
★11月3日、教会では天に召された信仰の先達を覚えて「召天者記念礼拝」を行いました。「~を覚えて」という言い方は、もしかしたら教会特有の言葉遣いかもしれません。「~のことを思って」というくらいの意味で使っているのでしょう。しかしキリスト教ではこの「覚える」という言葉には、それ以上の意味が含まれています。
★わたしたちはイエスという人について聖書を通じてしか知ることはできません。それは二千年前に遠い異国で書かれた記録で、読んだからと言ってすぐに分かるものでもありません。イエス様を「覚える」ことはたやすいことではありません。
★二千年の時を経てわたしたちがいまここでイエスを「覚える」ことができるのは、この二千年間、人から人へとイエスのことが語り伝えられてきたからに外なりません。二千年間の時を経てイエスのことが現代のわたしたちに伝えられるまで、どれだけ多くの人の口を経てきたか測り知れません。そのほとんどの人はすでにこの世を去った人たちです。最初の人がイエスのことを次の人に伝え、その人は世を去り、次の人はまたその次の人にイエスのことを語り伝え、そしてその人も世を去り、そのようにしてイエス様のことが二千年を経た現代のわたしたちにまで語り伝えられてきたのです。わたしたちがイエス様を覚えるということは、計り知れない程多くの人の命を経て受け継がれてきたものを、わたしたちが受け取るということを意味しています。
★教会で語られる「覚える」という言葉の内には、そのように命から命へと受け継がれてきたものをわたしたちが受け取り、そしてまた、わたしたちの後の時代世代に引き渡していく、そういう働きが含まれているのです。