日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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10月27日の週報コラム「ひだり手」

「現実に寄り添う言」

〈言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた〉(ヨハネ福音書1章14節)

★ヨハネによる福音書は神様の「言」が、「肉」となって「わたしたちの間に宿られた」と語ります。つまり神様が現実の世界の中に現実のわたしたち人間のありようで生きられたということです。人間の現実のありようは、生まれた瞬間から食べ物を欲し、成長すれば快楽やらお金やらなにやらかにやら一生の間ずっと何かを欲して喘ぎ続け、結局最後には朽ち果て塵となって滅び去っていくもの。強くも立派でも美しくもなく、惨めきわまりないものです。しかし聖書が語るのは、そんな惨めきわまりない人間の現実だけれども、ただ一つ、ひとりぼっちじゃないということ。惨めな現実の人間のありように対して、神様の方から近づいてきて、その現実に寄り添い、神様自身がその惨めなありようにその身を浸して、共に生きられるのだ、ということ。神様の「言」が「肉」となって、わたしたちの現実に寄り添って生きるのだということです。
★ケセン語訳の聖書を著された山浦玄嗣さんは、この箇所をこんなふうに訳されています。「神さまの思いが、こうして人の体をまとって、われらが間に住まいしなさった。われらはこの方の輝くようなお姿を見た。父(とと)さまからよこされた一人息子のこの方の、優しくて、親切で、嘘偽りの影もない、輝くようなお姿を見た」。
★イエス様は言葉面だけの嘘偽りをせずに、自分を強く立派で美しい者に見せかけようなどとはせず、あの惨めな現実の人間のありようそのものを生き通された。でもイエス様はそうすることによって、この現実の人間のありようは、それがどんなに悲惨極まりないものであったとしても、決してひとりぼっちではなく、生まれる前からも死んだ後にも神様が寄り添い伴われる現実の中にあるものだということを示されたのです。そういう、人をひとぼっちにしない、優しくて、親切な、神様の「思い」をイエス様はその人生全体、体全体をもって示されて生きられた、ということです。
by oji-church | 2013-10-30 17:34 | 牧師からのメッセ-ジ