7月21日の週報コラム「ひだり手」
★(承前)イエス様の宣教の働きとは、豊かさと貧しさという人同士を隔てる壁を具体的に打ち破って、生身の人間同士として出会っていこうという運動であったと思います。でもそれは、とっても難しいことだった。人はなかなか生身の人間になりきれずに、自分自身を財産だとか、地位だとか、立場だとか、ずるがしこさだとか、そういうもので身構えてしまうもの。そういう構えを解くことがどれだけ難しいことか。
★この人は最初「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」とイエス様に尋ねてくる人として登場します。彼はまず「善い先生」とイエス様に向かって「お追従」を述べることで身構えています。そうして「永遠の命」といういわば最強の鎧を身にまとうことを目指して、子供の頃から、聖書に語られる戒めをあれもこれもと守ってきた。そういう具合に、あれもこれもと、自分を守る「構え」を身につけてきたということです。そういう彼に向かってイエス様は「彼を見つめ、慈しんで言われた」と書かれています。この場面には一貫して、イエス様の人を見つめる「まなざし」が注がれているのです。そしてそれは、人への「愛おしみ」を持ったまなざしなのです。
★彼は悲しみながら去っていきました。人が自分の構えを解いて、生身の人間として人と出会い、触れあい、結び合わせられていくということは難しいこと。イエス様は「人間にできることではない」とさえ言われています。しかしイエス様は続けて言う。「神にはできる。神には何でも出来るのだから」。イエス様はこのとき、伝道に失敗し、一人風に吹きさらされて、呆然と立ち尽くすしかない、情けない自分の背中に、なお愛おしみを込めて注がれる神様のまなざしを感じていたのではないでしょうか。だからこそ、イエス様もまた、伝道に失敗してもなお、愛おしみを込めたまなざしで、立ち去っていくあの人の後ろ姿を見つめ続けることができたのだと思います。