日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


by oji-church
プロフィールを見る
画像一覧
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

6月30日の週報コラム「ひだり手」

「語るのではなく、生きること」

《彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる》(ルカによる福音書10章27~28節)。

★「何をしたら永遠の命を得られるか」との問いに対して「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を愛しなさい」。これは、ユダヤ教徒にとっては当たり前すぎる答えでした。だから聞いたイエス様は「正しい答えですね」と言うわけです。ただイエス様はその後に一言付け加えます。「それを実行しなさい」と。「愛」について持って回ったお説教を垂れることと「愛する」こととはまったく別のものだ。語るのではなく行えとイエス様は言うのです。
★この後イエス様は「そうすれば命が得られる」と言います。「命が得られる」というのも、どうも持って回った言い方ではないか。もとのギリシア語の聖書では単純に「そうすれば生きる」と書かれています。「命が得られる」と言うと「永遠の命が得られる」「天国に行ける」という宗教的な意味のようになってしまいますが、ここでイエス様はそんな言い方をしているのではなく、ただ「生きる」と言っているのです。
★「生きる」とは、寝たり起きたり、ご飯を食べたり、昨日と同じ仕事を今日もやり、散歩に出かけたり、歯を磨いたり、そういうこと。「愛する」というのは持って回った高尚な言葉で「語る」ものではなく、そういう日常の当たり前の動作の中で振る舞うべきことでしょう、という問い返し、そして、そうでなければいくら「愛」「愛」と言ってみたところで、その「愛」はちっとも生きていないし、あなた自身も本当に人間として生き生きと生きていることにはならないでしょう、という問い返しが、この中には含まれているのだと思うのです。
by oji-church | 2013-07-03 17:40 | 牧師からのメッセ-ジ