日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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5月12日の週報コラム「ひだり手」

「『罪』と『借金』」(2)

★アモス書にこんな言葉があります。「主はこう言われる。イスラエルの三つの罪、四つの罪のゆえに、わたしは決して赦さない。彼らが正しい者を金で、貧しい者を靴一足の値で売ったからだ」(2章6節)。ここでは「貧しい者」がたった「靴一足」の値段くらいの借金を返せないばかりに、奴隷として売られてしまうような、そんな当時の世相に対して、神様は「決して赦さない」と裁きの言葉を投げかけているのです。こうして読んでみると「悪い」のは、「われらに罪を犯す者」「わたしたちに借金を負っている人」の方ではなく、むしろそれを赦さない「われら」の方ではないかと思えてこないでしょうか。実はここが、この「主の祈り」の「ミソ」なのだと思うのです。
★人との間に摩擦が生じると、わたしたちは自分中心に「相手は、わたしに罪を犯す者だ」と思いがちです。しかしその相手というのは実は、わたしに借金を背負わされて苦しんでいる人なのだと言われています。苦しむ人を前にしてその人を赦さないのなら、「罪を犯す」のは他ならぬこのわたしなのだということです。
★改めてマタイによる福音書の「主の祈り」を読むとこう書いてあります。「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。ここではまず、わたしたちが「自分に負い目のある人」を「赦した」ことになっています。それから神様に「わたしたちの負い目を赦してください」と祈られています。よく言われるのは、「わたしたちは、自分に『罪を犯す者』を赦すことができない。そうすると、神様に『赦してください』とお祈りすることができないのかと思ってしまう」ということです。でも、この「負い目」というのが、わたしに借金を背負わせられて苦しんでいる人と受け取るならば、やはりまずわたしがその人を赦し、苦しみから解放してあげて、それから神様に対してわたし自らの罪の赦しを乞うのがスジだろうということが分かってきます。
by oji-church | 2013-05-15 12:30 | 牧師からのメッセ-ジ