日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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2月24日の週報コラム「ひだり手」

「権威はなくても自由はある」

《「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く》(マルコによる福音書1章27節)。

★ここで「権威」と訳されている言葉の元々の意味は「(あることをなすことができる)自由」「資格」「権利」というものです。エライ立場にいる人は、そうでない人と較べて、自由に振る舞うことができます。そういう意味でこの言葉は「自由」を「エライ立場」とイコールで結んで考える考え方に基づいています。
★当時ユダヤ教の礼拝で説教をする際に、ただ自分の考えた解釈だけをそのまま自由に語るなんてことは、よほどエライ先生でなければ許されないことでした。イエス様がそのような偉く立派な学者先生だったかといえば、まったくそんなことはありません。ナザレの村の一介の大工の息子に過ぎませんでした。
★でも権威も権力も持たないイエス様が一つだけ他の人にはないものを持っていました。それは何かと言えば「自由」。「権威」につながれていない「自由」。「権威」はなくても「自由」はある。わたしたちは「わたしのほうが」「俺のほうが」という「比較」に縛られて生きています。一方イエス様は、誰に対しても誰とも比較せず、ただその人に与えられている「その人らしさ」がその人自身にとっても周囲の人にとっても、喜ばしいものとして祝福されるように、ひたすらそのように人と出会い、人に触れ、人と共に生きられました。それがイエス様にとっての宣教の働きだったのです。
★だから、悪霊に取り憑かれていようが、重い皮膚病を患っていようが、徴税人であろうが、娼婦であろうが、イエス様には関係がありません。誰にでも触れて、その人の存在、その人の息づかいを受けとめて、その人がその人らしく生きられるようにと送り出していく、そういう自由な生き方をイエス様は貫かれました。
by oji-church | 2013-02-27 15:49 | 牧師からのメッセ-ジ