日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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1月13日の週報コラム「ひだり手」

「希望そのものを見つめるまなざし」

★「もともと希望というものは、有るともいえないし、無いともいえない。それはちょうど地上の道のようなものだ。実際地上にはもとと道というものは無かったが、歩く人が多くなって、そこが道になったのだ」(魯迅『故郷』より)。希望というのは、その材料が目に見える形で「もともとそこに有る」からそれを持つというものではないのです。目に見える希望の材料となるものが見当たらなくても、それでもなお「希望を持って生きよう」とわたしたちが自分から決断する。そう決断する人が一人また一人と増えてくる。するとそれまで希望の材料などまるで見当たらなかったところに、わたしたちが共にその上を歩いて行くことのできる道が生まれてくるということです。
★目に見える材料があるかないかで左右される希望は、たぶん本当の希望ではありません。それがなければわたしたち人間が生きてけない希望。それはたぶん目には見えないものなのだと思います。目に見える希望の材料にわたしたちが希望を見いだしている時、わたしたちはその材料に目を奪われ、それが希望だと錯覚し、そして実は本当の希望を見失っているのです。もしかしたらわたしたちは、目に見える材料にばかり目を奪われてきて、それが見えなくなるとそれを欲して、実は長い間、本当の希望というものを見失ってきたのかもしれないと思うのです。
★宗教改革者のルターは、こんなふうに語りました。「たとえ明日世界が滅びるとしても、わたしは今日リンゴの木を植えよう」と。明日世界が滅びることが分かっている。そこには目に見える希望の材料はまったくありません。でもルターはこれから長い時間かかって成長し、実を結ぶリンゴの木を今日植えると言うのです。途方もないことです。でもおそらくこれが本当の希望というものなのでしょう。目に見える希望の「材料」はまったく見当たらなくても、ルターは「希望」そのものをはっきりと見つめているのです。
by oji-church | 2013-01-18 16:02 | 牧師からのメッセ-ジ