10月14日の週報コラム「ひだり手」
★礼拝の説教でパウロの書いたガラテヤの信徒への手紙をゆっくりと読み進めてきました。キリスト教のメッセージは、本来ゆるしのメッセージです。しかし、ガラテヤの信徒への手紙には、ガラテヤの教会の人々に対するパウロの厳しい叱責の言葉が記されています。聖書がわたしたちに伝える「ゆるしのメッセージ」に触れて、わたしたちはしばしば、自分にはその「ゆるしのメッセージ」を当てはめて心癒される一方で、人には変わらず「裁きのメッセージ」を投げかけるということをしています。「裁きのメッセージ」とは言わないまでも、自分には「ゆるし」を当てはめる一方で、人には不平不満を抱くものです。簡単に言えば「自分にやさしく、人に厳しい」態度です。
★ガラテヤの教会の人々は、後からやって来た割礼を強調する人々の語るメッセージになびくようになっていきました。割礼を受けた人たちは、自分のことを「救いを約束された立派な人間」と思うようになりました。「救いを約束された人間」ですから、もう神様に叱られることはありません。どんなに人間的に至らなくても赦されているということになります。でも、割礼を受けていない人に対しては「お前は、赦されない。神様から裁きを受けるだろう」と厳しく当たるわけです。「自分にやさしく、人に厳しい」態度になっていきました。
★確かに聖書の語る福音は「ゆるしのメッセージ」に他なりません。だけれども、その「ゆるしのメッセージ」が真に「ゆるしのメッセージ」であり続けるために、わたしたちは厳しく自分自身と向き合わなければならない面があるのだと思います。何か自分にとって心地よい肩書きを手に入れて(例えば「洗礼を受けたクリスチャン」といった)、それでもって「自分をゆるし」、それを持っていない他人を裁く、そういう自分自身と向き合うということです。