6月10日の週報コラム「ひだり手」
★当時ガラテヤの教会の人々が入れあげていた信仰のあり方というのは、今言われる「自己責任論」のようなものかもしれません。ユダヤ教の律法に従って割礼を受け、自分で自分を清く正しく仕立て上げた者だけが救われるという考え方。ダメな奴というのは、この律法の掟に合わせて自分で自分を清く正しく仕立て上げる努力が足らないのだ。そんな奴は地獄に落ちても仕方がないという考え方。ダメな奴は壁の向こう側に追い出すやり方。壁のこちら側は、自分で自分を清く正しく立派に仕立て上げることのできた人間だけで成り立っているのだという考え方。
★そういうガラテヤの教会の人々の考え方に対して、パウロはこう言うのです。「もしもあなたがたが割礼を受けるなら(つまり自分自身を清く正しく仕立て上げることばかりに心奪われて、俺は十分立派に自分を清く正しく立派に仕立て上げることができている、なんて自分にうっとりしているようならば)、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になる」と。つまりあなたがたが、自分で自分を清く正しく仕立て上げた者だけが救われると考えて、ダメな奴は壁の向こう側に出て行け、なんて思うのだとしたら、役立たずのダメ人間にしか見えなくなってしまうだろう、ということです。たしかにイエス様は、自分で自分の身を清く正しく立派に仕立て上げようなどということにはほとんど気を遣っていなかったと思います。そして事実、罪人として逮捕され、鞭打たれてほこりと血と汗にまみれて、汚い姿で十字架に掛けられて、町の外、家の外、路上の道端にうち捨てられ、惨めに死んでいった人間です。