日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

礼拝予定などをお知らせします。まだまだひよっこのブログですが、コメントを残していただけるとうれしいです。


by oji-church
プロフィールを見る
画像一覧
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

6月3日の週報コラム「ひだり手」

「相手中心の『熱心さ』」(3)

★このすぐ前の場面には、パウロとガラテヤの教会の人たちの出会いが語られていました。パウロは体が弱くなったことがきっかけでガラテヤの人々と出会うことになりました。彼ら・彼女らはパウロのことを忌み嫌うことをせず、懇切に看病してくれた。あたかもキリストででもあるかのように。パウロの目が悪くなっていると言えば、自分の目をえぐり出してでもパウロに与えようとさえしたと。パウロは病気のために手も足も出ない弱い存在になり果てていました。ガラテヤの人たちも貧しい山村に暮らし、決して強い存在ではありませんでした。この弱い者同士を固く結び合わせたのは、ご自身十字架に付けられて手も足も出会い弱い存在となられたイエス・キリストであった。弱い者同士が相手を助け、相手に助けられる関係を結ぶ時、そこにイエス様も共におられるのだということです。そういうキリストが「あなたがたの内に形づくられるまで、もう一度」ということなのでしょう。
★灰谷健次郎さんの『太陽の子』という作品の中にこんなセリフが出てきます。「いい人ほど勝手な人間になれないから、つらくて苦しいのや。人間が動物と違うところは、他人の痛みを、自分の痛みのように感じてしまうところなんや。ひょっとすれば、いい人というのは、自分のほかに、どれだけ、自分以外の人間が住んでいるかということで決まるのやないやろか。」
★「自分の中に、自分以外の人間が住んでいること」。それこそが、自分中心でない、相手中心の「熱心」ということ、そしてまた、「キリストが自分の内に形づくられること」なのではないでしょうか。
by oji-church | 2012-06-16 15:04 | 牧師からのメッセ-ジ