5月20日の週報コラム「ひだり手」
〈あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心にしたわれるのは、よいことです。〉(ガラテヤの信徒への手紙4章17~18節)
★今、教会に集まる人が減っている中で、「伝道に熱くなる教会」ということが叫ばれています。しかしその「熱心さ」がただ自分の勢力を拡げたいという、自分を真ん中に置いた意図でなされる「熱心」であるならば、それは「善意からの熱心」とは言えないでしょう。次にパウロはこう語っています。「わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも善意から熱心に慕われるのは、よいことです」。ここは訳し方が悪いと言いたいです。こう訳すと、あたかもパウロが、自分があなたがたのもとにいるときだけにかぎらず、あなたがたはわたしのことを善意から熱心に慕うべきだ、それこそが「よいこと」なんだと要求しているように読めてしましいます。そうではなくてここのところを元のギリシア語にそって訳すとこうなります。「よいことにあって熱心に求められることは、よいことだ」。何を言っているのかよく分からない言い回しですが、原文通りに訳すとこうなります。
★恐らくパウロが言っているのは、自分が慕われることよりも、ガラテヤの教会の人たちがよいことのために熱心に呼び求められることは、よいことだと言っているのだと思います。つまり「熱心」というのは、「俺の方を向け」という自分中心でなされるべきものではなく、「あなたが大事なんだ」「あなたが必要なんだ」という「あなた」を中心にして、相手を中心に置いてなされるべきものなのだということをパウロは語りたいのではないかと思うのです。(つづく)