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日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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by oji-church
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5月13日の週報コラム「ひだり手」

「もう子どもじゃない」(2)

〈同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。〉(ガラテヤの信徒への手紙4章3~4節)
★パウロはここまで、ユダヤ教の律法の掟が、子どもの後見人・管理人だと語ってきました。でもガラテヤの教会の信徒の人たちは、もともとユダヤ人ではありません。ユダヤ教の律法の代わりにローマ帝国にはありとあらゆる神様を崇める宗教がありました。それぞれに聖なる日にちが定められていたり、なすべき儀礼が定められていて、それを守って生活することが求められていました。そういう有様をパウロは「世を支配する諸霊に奴隷として仕える」と語り、10節では「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています」と言っています。
★日本社会もこれとあまり変わりません。いわゆる神道や仏教といった宗教そのものだけでなく、日本人が気にするのは、干支、星座、血液型、方角、大安や仏滅といった暦、名前の字画等々、数え上げればきりがありません。これらがキリスト教に基づいていないからいけないというのではありません。でも、こうしたことが次から次へと節操なく取り込まれることの背景には、自分で考え、自分で判断することに未熟な日本の社会の幼稚さ、子どもっぽさがあるとは言えないでしょうか。
★律法の掟や諸宗教の儀礼という、人を監視する力から解放されて、わたしたちはもう子どもではない。一人前の人間として、ユダヤ教の律法の掟という檻からも、諸宗教の儀礼という檻からも出て、のびのびと野山を歩き、谷の百合を見つめ、空の鳥を眺めたように、わたしたちもそうした檻から外に出て自由に遊ぶのでいいのだ、というのがパウロの呼びかけなのです。
by oji-church | 2012-05-17 13:54 | 牧師からのメッセ-ジ