日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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2月26日の週報コラム「ひだり手」

「『キリストの体』として生きる」(2)

★福音書には、イエス様が五千人以上の人たちとわずかなパンと魚を分かち合ったという場面が語られています。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教えられ始めた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエス・キリストのそばに来て言った。『ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。』これに対してイエスは、『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』とお答えになった」。
★イエス様は弟子たちばかりでなく、イエス様の後をつけて駆けつけた大勢の群衆に対しても、その「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れ」みました。この「深く憐れむ」というところには、ギリシア語でもともと「はらわた」という意味の言葉が使われています。恐らくこの人たちは空腹で、また身なりもみすぼらしく、何ら希望を持てないような姿をしていたのでしょう。その姿を見てイエス様は「はらわたの千切れる思い」、断腸の思いがしたというのです。そして弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と呼びかけるのです。弟子たちは「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言って、これらの人たちとの出会い・つながりなど、自分たちには及びもつかないと考えました。そこにあったのはわずかに五つのパンと二匹の魚だけででした。とても五千人以上の人たちの空腹を満たすことにはなりません。でもイエス様はそれらのパンと魚を集めて、それを手に取って「天を仰いで賛美の祈りを唱えて」それを裂いて皆に配ります。するとすべての人が満腹したと言います。
★恐らく「罪人を招き」「仕えるために」生きるというのは、こういう振る舞いを指しているのでしょう。弟子の集まりという枠を超えて、自分たちにとってとても及びもつかないと思える新しい出会いへと自分自身を開いていくことです。弟子たちはそれまで五千人もの人たちと一緒に食事などしたことは無かったでしょう。初めての出会い、まだ見ぬ出会いです。でもそのまだ見ぬ出会いへと自分自身を開いていくことが、「罪人を招く」「仕えるために」生きるということなのだと思うのです。
by oji-church | 2012-02-29 12:22 | 牧師からのメッセ-ジ