9月11日の週報コラム「ひだり手」
神は歩き回り、周囲を見渡した。
彼が創造したすべてのものを。
彼は太陽を、
月を、
そして小さな星の数々を見た。
彼は自分の世界を
そこにあるすべての生けるものを見た、
そして神は言った、それでもわたしは寂しい、と。
そこで神は座った、
思い巡らすことのできる丘の斜面に。
深く、広い川のそばに彼は座った、
頭を手の中にうずめて、/神は考え続けた、
ついに彼は思い至った、わたしわたしのために人間を造ろう!
河床から
神は土をすくい上げ、
川べに彼は跪いた。
神の大いなる力、
太陽を輝かせて空に据え
夜の隅々にまで星をちりばめ、
その手の中で大地を転がした
大いなる神が
赤ん坊にかがみ込む乳母のように、
塵の中にひざまずき、
土の塊を捏ねに捏ね、
ついに自分自身の姿に造り上げるまで。
それから彼はその中に命の息吹を吹き込み、
こうして人は生きる魂となった。
アーメン。アーメン。
★ジェームス・ウェルドン・ジョンソンという20世紀の初め頃に活躍したアメリカの黒人の詩人の「創造」という詩の一節です。
★あの大津波によって、自然の働きとのつながりの中で、与えられたいのちを生きていくより仕方のない小さな人間の姿が明らかとされました。一方、原子力発電所の事故によって、そういう自分自身のあり方を忘れて、自然を意のままに操ることができると思い込んでしまった人間の過ちが明らかにされました。人間とは所詮、災害が起こればいともたやすく死んでしまう、小さく取るに足らない存在だったのか。そしてまたその一方では、自分自身の過ちに気づくこともできず、自分自身の暴走も止められず、やがては自ら自分の首を絞めて滅んでいってしまう愚かな存在なのか。いま、心のどこかにそんな虚しさが去来しています。
★そんな中にあって「神はご自分にかたどって人を創造された」(創世記1:27節)という言葉が響いてきます。それはいったいどういう意味なのでしょう。(つづく)