日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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8月28日の週報コラム「ひだり手」

「人間は自己の力量に慢じて」

《あなたがたが“霊”を受けたのは律法を行ったからですか。それとも〈信〉について聞いたからですか》(ガラテヤの信徒への手紙3章2節・一部私訳)
★漱石の『吾輩は猫である』にこんな台詞があります。「吾輩は人間と同居して彼等を観察すればするほど、彼等は我儘なものだと断言せざるを得ないようになった。……元来人間というものは自己の力量に慢じてみんな増長している。少し人間より強いものが出てきていじめてやらなくてはこの先どこまで増長するか分からない」。
★『猫』が刊行されてから今年でちょうど百年です。百年後の今、猫に言うその通りになっていると言えないでしょうか。猫が表しているのは人間の周囲にある自然です。人間は自然から「自己の力量に慢じて増長しているのではないか」と問いかけられているのでしょう。
★パウロは繰り返し〈霊〉について語ります。〈霊〉を受けるとは、心揺すぶられる経験、心を揺さぶられ、ああ、自分も心を持って、魂を持って生きていたのだと意識させられる。そういう経験です。イエスという人、十字架に掛けられて殺されるまで人々への愛を貫いた人と出会って、そういう経験をした。この経験を大事にしていこう。それがパウロの説く「信仰」というものなのです。
★こうしてパウロは、イエスとの出会いを通じて自然からの問いかけ、いのちからの問いかけを、自分自身の体そのものによって、魂そのものによって、いのちそのものによって受け止めていったのです。律法の掟とか割礼とかいった「しるし」「制度」によってでも、また「クリスチャン」という「地位」によってでもなしに。そしてガラテヤの教会の人々に改めて呼びかけます。もう一度、あの心揺さぶられる経験、イエスと出会い、自分も一人の人間として、魂を持って生きている者だったのだと気づかされるあの場所に帰ろうじゃないかと。
by oji-church | 2011-08-31 14:27 | 牧師からのメッセ-ジ