7月24日の週報コラム「ひだり手」
★「信仰を持つ」ことにせよ何にせよ、この世でわたしたちのやることはすべて人間の「行い」に他なりません。パウロにとって大事だったのは、それがキリストとの出会いの中で生まれた「行い」なのかどうかという一点でした。たとえ「洗礼を受けて、信仰を告白しました」と言っても、そこにキリストとの出会いが無ければ、それはパウロにとって何にもならないものなのです。
★「わたしは洗礼を受けて、信仰を告白しました。だからわたしは神様から『正しい』と認められ、救いを約束されています」。それは確かに立派な信仰の表明に響きます。けれどもそれとて結局は人間の「行い」に過ぎません。それもそう表明するその人ひとりの。そこには敗れがありません。敗れがないから、敗れたイエス様との出会いもありません。イエス様という人は、最後の最後には十字架に掛けられて、嘲りを吐き捨てられ、呻きを挙げながら息果てるという敗れの敗れ、敗北の敗北を背負った人でした。しかし、それだからこそイエス様は敗れた者の救い主なのです。
★このイエス様と本当に出会う時、わたしたちは様々な問いかけを受けるでしょう。自分の生き方はこれでいいのか。わたしは本当になすべきことをなして生きているだろうか。そのように問われることは大切なことです。そこから信じる道は始まるのですから。
★もう一つ大切なことがあります。それは、そのような問いかけを受けながら、その問いかけに答えきれない自分自身の敗れを見出すことです。そのとき、その敗れの傍らに、やはり敗れを携えたイエス様、十字架を背負ったイエス様が、わたしの敗れを分かち合いながら、共におられるのです。