日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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7月10日の週報コラム「ひだり手」

「『信仰義認』と『行為義認」」(Ⅰ)

★神学の専門用語で「信仰義認」という言葉があります。「信仰によって義と認められる」、つまり、人はイエス・キリストへの信仰によって、神様のお目に叶っていると認められるという意味です。一方、その反対語は「行為義認」という言葉です。つまり、その人がどれだけ「正しい行い」をしたかによって、神様から「正しい」と認められるかどうかが決まってくる、ということです。
★イエス様の時代、またその後の弟子たちの時代の当時のユダヤ教は「行為義認」であった。それに対してキリスト教、とりわけ使徒パウロは「信仰義認」を説いたと説明されます。そこで、キリスト教の信仰は「行為義認」ではなく「信仰義認」であると説かれることになります。つまり人は、正しい行いをしたかどうかではなく、イエス・キリストを救い主と信じますという信仰を言い表すことによって救われるのだと説かれるのです。
★しかし、人の行いと人の信仰の持ちようとは、そんなにスッパリと二つに分けて考えることはできません。一般的にキリスト教では、人が信仰を持っているかどうかは、その人が教会で洗礼を受けて、「イエス・キリストを救い主と信じます」という信仰を告白しているかどうかによって判断されます。しかし「洗礼を受ける」「信仰を告白する」というのも人間の「行い」に変わりありません。とすると、その人が洗礼を受けて信仰を告白しているかどうかで、その人が「信仰を持っている」「正しいと神様から認められている」と判断することは「行為義認」になってしまうのではないかと思われます。(つづく)
by oji-church | 2011-07-23 12:14 | 牧師からのメッセ-ジ