7月3日の週報コラム「ひだり手」
〈彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているではないか。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしよう〉(創世記11章6~7節)
★ケセン語訳聖書の著者山浦玄嗣さんは、ケセン語の聖書朗読を聞いて涙した高齢の女性の話を引いて、「イエス様は泥臭いズーズー弁で身を低くしてサクノさんに語りかけたのだ」と語ります。
★「れんがを作り、それをよく焼こう」「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」というかけ声が語られます。それは、権力を握った一部の人たちのかけ声だったと思います。バビロニアによる侵略によって故郷を奪われた人たちは、そのかけ声に有無を言わせず従わせられたのです。
★「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話している」というのも、実態は一部の人たちが自分たちの企てを他の人たちに無理強いして同じことを言わせていたのでしょう。そうしたこの町のあり方、この町を牛耳る権力者たちの企てを、神様は打ち砕いたのです。もしかしたら、それまで有無を言わせず塔の建設にこき使われていた人たちが、「自分たちはこんな企てに加担することはできない」と、自分たちの言葉で「否」の声を挙げたのかもしれません。
★ペンテコステの日、弟子たちは外国語を話したのではなく、ガリラヤ訛りの自分たちの言葉を語り始めたのではなかったか。バベルの塔の場面でも同じことが言えるのではないでしょうか。有無を言わせずこき使われていた人たちが、自分たちの声を挙げ、自分たちの言葉で語り始めたのです。バベルの塔の建設は打ち砕かれ、こき使われていた人たちはそれぞれ自分たちの言葉を携えて、故郷へと帰っていきます。それがこの場面に込められた神様の恵みではないでしょうか。