2月13日の週報コラム「ひだり手」
《ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。》(ルカによる福音書10章33~34節)
★新約聖書には「敵を愛しなさい」(マタイ5:44)という教えがあります。しかしキリスト教は繰り返し、敵を生み出し、攻撃や迫害を加えてきました。実際聖書の記述自体、この教えのすぐ後に「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。……異邦人でさえ、同じことをしているではないか。」と、徴税人や異邦人を「敵視」して軽蔑する言葉が出てくるのです。
★一方、イエス様が語った「よきサマリア人」の譬えは、強盗に遭い倒れた人が、それまでユダヤ人から「敵」と思われていたサマリア人によって愛され、助けられる出来事を語ります。「敵を愛しなさい」と人に訴えるよりも前に、実は自分が「敵」から愛されてしまっている。そういう出来事をイエス様はここで語り起こしているのです。
★「敵を愛しなさい」と麗しく人に教える前に、自分がだれかを「敵」だと思っていることは、そのだれか相手にとっても自分が「敵」となってしまっていることをまず覚えなければなりません。そして自分が「敵を愛しなさい」と人に教える前に、すでに自分自身が「敵」から愛されている、そういうことがあるんだということ。そこが大事なところなんだと。そのことをわたしたちに知らせるためにこそイエス様は「敵を愛しなさい」と教えたのかも知れないと思うのです。