9月12日の週報コラム「ひだり手」
「豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を来、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった」(マルコ5:14~15)。
★彼が「服を着、正気になって坐っていた」と書かれています。「正気」とは正しい心という意味です。彼の人間性の中に戦争を、そして人を支配する人間と支配される人間とに分ける考えを強く拒む「正しい心」をイエス様は見いだしたのです。
★ところが人々は彼の「正しい心」を見て「恐ろしくなった」と言われます。そして「イエスにその地方から出ていってもらいたいと言い出した」と言われます。軍隊の力を恐れ、それにひれ伏しより頼む人間の心情が語られているわけです。一方、退去させられるイエスと一緒に行きたいと願うあの男性の願いを退けて、イエスは彼に自分の家に帰るように、そして「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と告げます。彼をこの地に残すことによってイエス様は、戦争と植民地主義の傷と余波とが渦巻く世のただ中に福音の余波を残したと言えるかもしれません。
★この福音書を著したマルコは自分たちの教会をこのゲラサ人に残された福音の余波を受け継ぎ、戦争と植民地主義の余波に対峙する者と考えていたのではないかと思います。思われていた女性や子どもたちの命そのものを愛そうとされたのです。本当の平和とはそのように本当の命そのものが愛され、大切にされることなのでしょう。