日本キリスト教団王子教会 ojichurch.exblog.jp

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6月13日の週報コラム「ひだり手」より

「労苦に敬意を持って」

《シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。》(マルコによる福音書1章30~32節)

★イエス様はシモンのしゅうとめのそばによって、彼女の手を取って、起こされたと書かれています。何気ないこの仕草に「なおしてやる」という姿勢はなく、むしろ彼女の苦しみ、苦労に敬意を持って、そこに触れてその痛みと重みを分かち合おうとする姿勢が感じられないでしょうか。本当に必要なのは「人の病気を癒してやれる」という能力ではなく、人の労苦に対する敬意と愛おしみを注ぐ姿勢ではないかと気づかされます。
★「癒す」という言葉、テラペウオーというギリシア語は、テラポーン=「仕える者、下僕」という言葉に由来しています。そこから病気の人に仕える、つまり看病するという意味になりました。もとは「癒してやる」という特別な能力を表す言葉ではなく、仕える、看病するという、人間の苦労のこもった言葉なのです。
★そんな具合に、この場面はイエスが人の病気をすっかり見事に「癒してやる」というような華々しい場面ではなく、最初から最後まで、人間が生きることの苦労が通底音として響き続けている場面として読むことができます。
★こうして互いの労苦に対して敬意を持ち、愛おしみを注いで受けとめ合う出会いとつながりを目指して、イエスはこう言われたのではなかいでしょうか。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」。そのために出かけてゆくものでありたいと願います。
by oji-church | 2010-06-16 15:38 | 牧師からのメッセ-ジ