6月6日の週報コラム「ひだり手」
《あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。》(ローマの信徒への手紙8章15節)
★最近出された『イエスの父はいつ死んだか』という本の中で、聖書学者の佐藤研さんはこのように書いています。「イエスはその公の登場まで、決して天にいたわけでもなく、隠遁していたわけでもなく、また恵まれた上流階級にいて世間を観じていたわけでもない。明日、明後日の糧を得るべく、日々の仕事に精を出し、父なき後の母を慰め、家族を支えていたのだろう」。
★一方わたしたちが「神の子イエス・キリスト」と言って思い描く姿は、ほとんどの場合、現代の文化・風俗の中でわたしたちが「神の子」という思いこみに従って描き出した姿ではないでしょうか。でももしそうなら「神の子」は、イエスでなくてもいいということにならないでしょうか。「いかにも神の子」と思えるような、神々しい人物を思い描いて、救ってもらえると思っていればいいのです。
昨今教会の伝道の不振が叫ばれる中で、教会は社会の問題には関わらず伝道に集中すべきという意見があります。しかし教会が人と出会い触れ合う中で直面する、生身の人間がそれぞれに抱える悩みや重荷、教会の置かれた場所の抱える課題や矛盾、そういうものに触れること無く伝道が成り立つでしょうか。「いかにも」という形は整えるられるでしょうが、そこに人を生かす命は宿るでしょうか。
★聖書が呼びかけるのは「いかにも神の子」を創り出して、それを崇めることでははなく、「アッバ(お父ちゃん)!」と叫ばざるを得なかった一人の生きた生身の人イエスに踏みとどまって、この人こそが「神の子」なのだということです。